【絶対写真論】Chapter8 Truth / Lies
真実(Truth)と虚偽(Lies)。
photographが「写真」と邦訳されたことによって、写真とは真実を写すものであると今なお信じられている傾向が強い。
写真とはその語源のように「光で(photo-)」「描く(-graph)」技術なのであり、制作者によって創造される「イメージ」にしかすぎない。
そのため、撮影者の心情や思いなどの感情は写真には表象しない。写真をみて何かを想起するのは、鑑賞者による勝手な解釈によるものなのである。
つまり、表象するイメージが真実か嘘かは、本来であればどうだって構わない。しかし、われわれは日常的にスマートフォンなどで写真を撮り、眼前の情報が写真として残ることを知っているため、少なからず写真のイメージとはリアル(≒真実)なものとして対峙することとなる。
では、写真となる画像データであればどうであろう。データにおいて問われるのは真偽性ではなく、整合性や妥当性のはずである。とりわけ、写真となるためのカメラ内のアルゴリズムは、各種メーカーによってブラックボックス化されている。そのため、一般ユーザーであるわれわれコンシューマは、アルゴリズムによって変換され保存されたデータが「正しい」ものとして扱うしかなす術はないのである。
画像データとなる情報、すなわち「0」と「1」のビットが「事実」として存在している。たとえ、各種デバイスが認識不可能なデータへと改ざんしたとしても、デバイスはこれらのデータが正しいフォーマットではないと判断するにすぎない。
ところが、画像データがひとつの集合体となり、それが「写真」として認識されたとき、われわれは写真に表象したイメージと実世界に存在する物質との比較、もっというと「私が目にする世界」を「真(真実)」として写真の真偽性を問いているのである。
コンピュータ内でシミュレートした媒体を撮影(キャプチャー)する。カメラという装置を利用していないだけで、「いま、ここに」存在する状態を定着させるプロセスは、まさに写真の生成プロセスそのものである。
実際のところ、データで問われているのは数値的な信頼性や妥当性である。つまり、複製可能なデジタルデータにおいて、オリジナルかどうかは重要ではない。たとえ、コピーされたデータであったとしても、そのデータが信頼するに値するものであれば、情報としては充足する。
制作者はタイトルという決定的な言葉を与え、意味のない情報の集合体になんらかの意味を付与する。さらには、ステートメントやプレゼンテーションといった言葉で補完することによって、制作者が創造する写真的世界の見取り図を明確にしていく。
つまり、画像であるデータが「写真」として認識されたとき、画像(image)は心象(image)へと変容していくが、そこには「真実」も「虚偽」も存在してはいない。
そこにあるのはデータの集合体が写真として表象する「事実」だけなのである。さらにはその「事実」に対して、制作者がなんらかの意味を付与することによって、新たな写真的世界が創造される。
こうすることにで、写真は再び魔術的な力を獲得する(再魔術化)ことが可能となるのだ。