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【書籍】Mirros and Windows

MoMAの第3代写真部門長であるジョン・シャーカフスキーが企画した『Mirros and Windows』(1978)。邦題『鏡と窓』展。おそらくこの展覧会が、アート写真の転換期として重要な位置を占めている。

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1960〜1978年のおおよそ20年間における、アメリカのアート写真に焦点を当てた本展。アンセル・アダムス、ハリー・キャラハン、アービング・ペン、アーロン・シスキンド、フレデリック・ソマーなどー1950年以前においてすでに重要な位置付けにある「20世紀写真」と比較して構成された。

「20世紀写真」とは、現代アート分野の写真とは一線を画し、主にアナログの銀塩カメラを用いた写真である。20世紀写真はモノクロームの抽象的な美しさと、一般的な印刷では表現できないファイン・プリントの再現性が価値基準である。

一方で、1960〜70年代のコンセプチュアル・アートの潮流のなかで、写真がアートのひとつのジャンルとしてその地位を確立していく時代において、本展もまた重要な位置付けとなった。

とりわけ1950〜70年代において、アメリカ写真のムーブメントは社会的なものからプライベートなものへと変容していった。これは、WW2終戦、冷戦、ベトナム戦争など、戦争による影響、および情勢不安による影響は否定できない。

同時代におけるヨーロッパのグループは、人気雑誌へ写真を掲載・投稿しており、国際的というよりかはむしろ地域密着型な活動を行っていた。

1960年代に入ってもなお、こうした雑誌はフリーランスには機会が与えられてはおらず、写真による出来事と場所とを発表する場として存続していた。写真家たちは雑誌の寄稿のために、仕事を通じて独自の視点に焦点を当てていた。その一方で、出版物や展覧会に残された可能性としては、彼らの仕事の意義を十分に満たすようコントロールすることが挙げられた。

シリアスな写真と雑誌との間の関係性は、このときすでに始まっていた。雑誌は写真家たちに新たな問題と巨大な聴衆に挑むよう働きかけを行なっていた。こうした雑誌はエディターを筆頭に、官僚型コミュニティーシステムによって、写真家たちの仕事はコントロールされていた。

その結果、大半の写真家たちにとって雑誌を利用することは世界に対する私的な見方を提示する媒体として困難であるといわざるを得なかった。

1950年代に入ると突如として写真雑誌は低下の一途を辿る。その理由としては、TVの大衆化、安価な海外航空など、場所と出来事の同時刻性が挙げられる。当時の雑誌はかろうじて私たちに興味を惹きつけるものとしての役割を担保していたが、それも次第にそれを十分には満たさないようになっていった。こうした状況下において「Life」誌は数少ない成功を収めた雑誌であるといえよう。

近年(展覧会当時)において、巨大な社会的問題を写真によって提示することが失敗であった、ということが次第に明確になるであろう。それは、ヴェトナム戦争ではメディア(報道)の自由がアメリカによって認められていたことにほかならない。

モホリ=ナジは1936年時点でカメラを使うことなく写真を制作していたように、プロの写真家の役割は魔術的な意味合いに近い技術によって担保されていた。

カメラの操作が理解されるにつれ、写真による制作が容易となり、次第に制作物からコンテンツへと移行していった。そうして、プロの写真家の役割は社会的なものへとシフトしていったのと同時に、アメリカの写真は私的に、徐々にプライベートなものへと緩やかに移行していった。

ドキュメンタリー写真が全盛期を迎えたWW2。終戦後の1940年代、アメリカの芸術系大学では急速にアート教育へとシフトしていった。その結果、かつてのドキュメンタリー中心の写真アカデミーは衰退していく。

この傾向が劇的に変化したしたのが1960年代であった。写真学生はMFA(芸術学修士)取得者が増加し、のちに彼らが教鞭をとるようになったことで、新たな教育プログラムが始まっていった。1964〜1967年には、大学の写真コースは268から440へ、1966〜1970年にかけてイリノイの大学の写真専攻もしくは映像専攻の学生は132人から4175人へと大幅に増加していった。

これは、モホリ=ナジが戦火を逃れ、アメリカで開講したニュー・バウハウス(1937年)、その後のイリノイ工科大学(1949年に併合)によるアカデミー教育によるものである。こうした写真教育を通して、写真家のオリジナリティや重要なアーカイブが整備されていった。

1950年代においては、アート系の学生とかつての写真家(20世紀写真)の学生が混在していたため、たびたびトラブルが起こっていた。アート系の生徒はアート制作を行うための「機械」として写真を用いていた。これは、イーゼルによる絵画的手法が時代錯誤な手作業によるものだといわれ、写真が新たなアートにおける理論的なものとして頭角していった。20世紀写真では、カメラは「機械」であるとは理解されていなかったのだ。

1950年代におけるアメリカ写真において、3つの重要な出来事がある。Aperture Magazineの創業(1952年)、”The Family of Man”展(1955年)、ロバート・フランクの“The Americans”の出版(1959年)である。

このうち最も大衆に受け入れられたのは“The Family of Man”でった。この展覧会の基礎的なテーマは「すべての人々は基本的に同じである」というものであり、全ての写真は基本的に同じであることが必要とされていた。その一方で、Aperture誌と”The Americans“はともに1950年代における新たな写真の推進力を特徴付けるものであった。

Aperture誌ではアルフレッド・スティーグリッツによって定義され、エドワード・ウエストンとアンセル・アダムスによって拡張されたアメリカの伝統的な写真を提示していた。そこには完璧なプリント、雄大な自然風景、ひとりの写真家が興味を持ったミニマルな世界観、といったものが表現されていた。

アイゼンハワー政権時において、フランクによるパーソナルな視点によって構成されている“The Americans”は、複雑化した社会を理解することが根源にあり、素早い視線と、小型カメラのポテンシャルを根本的に理解することに依存している。それは素晴らしい描写よりもむしろよりよい素描に頼っている点が挙げられる。

展示当時のアメリカ写真は大きく2つに分類される。ひとつは「ストレートフォトグラフィー」であり、露出の瞬間にカメラ内に定着されたイメージによって特徴付けられる。もうひとつは「合成(加工された)写真」であり、暗室作業、コラージュ、色を加えるなどカメラによるイメージを徹底的に修正されている。

アルフレッド・スティーグリッツとウジェーヌ・アジェを引き合いに出し、彼らの仕事は相対的な力、もしくはオリジナリティの点ではなく、写真とはなにかというコンセプト点で図られる。これは、それを制作したアーティストの内面を映し出す「鏡」なのであろうか。もしくは、制作を通して世界をより理解しようとする「窓」なのであろうか。

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アーティストの作品を大別して「鏡派」と「窓派」に分け、それぞれの作品からアート分野における写真とはなにかということを問うた展示、とみられてはいるが、シャーカフスキーの紀文を読んでいくと、必ずしもそれだけではないと感じられる。

二項対立的に分類して比較することでものごとが明確に理解できる一方で、本展で提示した作品は両者が複雑に絡み合い、決して二分することはできないことを、逆説的に示していたのではなかろうか。

現代(1970年代当時)のアメリカ写真における位置付け、およびアートとしての写真とはなにかということを、それまでの写真(20世紀写真)と比較・検討することで明らかにしようと試みていた。

では、現代(2021年)における写真とは、何であるかと考えた場合、比較の対象となるのはおおよそ20年前、2000年前後に当たるであろう。デジタル写真が一般普及し、アナログvsデジタルが紙面を賑わせていた当時。

銀塩の方が目新しさを感じられるようになったといわれるほど、生まれながらにしてデジタルネイティブな世代がこれから先の世界を先導していく。

とりわけ、FacebookやInstagramに代表されるように、SNSが生活の一部と同化したことで、写真はもはや特別なものではなく、日常生活の一部として位置し、もはや特別な存在ではなくなった。

自己と世界とがインターネット空間によって接続され、ヴァーチャルがリアルの一部として存在するようになった。

最先端の動向は最前線のアーティスト、キュレーター、ギャラリストなど、多くの人々によって作られていく。しかし、こうした新たなムーブメントはある程度の時間が必要であり、過去の出来事と比較・検討することによってようやくその成果が明らかになる。

とりわけ、19世紀後半における印象派から始まり、フォービズム、キュビスム、未来派など、時代とともにいくつもの歴史的な芸術運動が起こってはいるが、その多くが芸術運動が発生したのち(数年~数十年後)に誰か(キュレーター、批評家など)によってカテゴライズされ、アートの歴史が枝葉のように広がっていく。

もちろん、歴史の表舞台に立つことはなかった、数多くの芸術運動が生まれては消えを繰り返していたであろう。そうしたものを改めて芸術のコンテクストに「見立てる」ことによって、アートにおける歴史の1ページが加えられることもできる。

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京都芸術大学内、ギャルリ・オーブで催されていた展示「写真は変成する MUTANT(S) on POST/PHOTOGRAPHY」(2021/03/19~3/29)もまた、そうした可能性を実験的かつ野心的に実践したプログラムであった。

キュレーターだけではなく、現在を生きるアーティストや若き研究者たちそれぞれがこれからの写真の可能性を模索、提示した本展。それを「POST/PHOTOGRAPHY」という呼称でカテゴライズし、新たな写真のムーブメントを提唱し発信した。

時間の経過とともにその運動の是非が誰かによって確立され、やがて2020年前後を代表するような写真表現のひとつとして写真史にその名を刻む、のかもしれない。結果はあとから追いついてくる。まずはやってみなければなにも始まらない。壮大な実験はまだ序章にすぎない。



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