
【絶対写真論】Chapter1 プロローグ
本章の序論、すなわちこの本の方向性を決める内容としてなにが適切かと考えた。
1番のキモは「写真」である。語源は「光で(photo-)」「描く(-graph)」=「photograph」を、「写真」と邦訳されたことが諸悪の根源である。
江戸時代の蘭学者大槻玄沢は「蘭説弁感」(1788)で、カメラ・オブスクラを「写真鏡」と邦訳した。
(参考:吉本秀之「日本におけるカメラ・オブスクラ=写真鏡」)
https://www.academia.edu/32280814/日本におけるカメラ_オブスクラ_写真鏡
この、さも「真実」を「写す」技術として、日本で定着してしまったことで、「写真」とは撮影して写されたものであり、そこには真実(実像)がある、と少なからず一般的には認識されている。
これは、写真がカメラ、もっというとコダックロームが35mmのパトローネ型のフィルムを発明したことによって、その簡便さから瞬く間に大衆化したことで、写真=撮影がごく当たり前の行為となってしまったことが大きい。
そのため、言語的な意味とは異なる、概念的な意味の問いへとシフトしていった。
「写真とはなにか」。すなわち、写真になにが写っているのか、写真にはどのようなものが写るのか、写っているものは何でそれはなにを表しているのか、といった表象的な問題に対する考え方において、現在でもその傾向は依然として残されている。
しかし、photographが「光画」とも訳されることがあるように、「写真」とは単に光学的な技術によって画像化されたものにしかすぎない。
そのため、どう撮った、なにを写した、といった撮影者主体の表面的な議論には、そもそも意味などないのである。
では、この「光学的な技術」を担っているのは何か、と考えたときに、当然ながら「カメラ」という装置がその役割を果たしている。さらにいうと、カメラに実装されている「アルゴリズム(プログラム)」が、実際には数値処理を行っているのである。
ことの発端は、アーティストであり、プログラマーでもある私は、「撮影」という行為を行わなくとも、「写真」になる「画像」が生成できるからである。
ところが、いまだなにを撮った、どう撮った、なにが写っているといった表象的な話題が中心にあり、そこから派生する「この写真で伝えたいこと」といった撮影者主体の話しに、いまなお捉われているのが現状として存在する。
なぜなら、「写真に感情は写らない」からである。なにか内面的な感情がその写真に含まれていると勝手に解釈するのは、他でもない鑑賞者自身なのである。無意識のうちにそのイメージからなにかを読み取り、理解しようと見る側が自発的に行っているだけにすぎない。
写真である画像に表象しているのは情報、もっというと記号(コード)にしかすぎないのである。
写真は写真でなくなり、そして写真となった
誰しもが思い描いていた「写真」は、デジタル化によってかつての銀塩時代の「写真」の形態ではなくなってしまった。しかし、写真が単にデジタル化されただけで、写真そのものは銀塩写真の延長線上に位置すると、今でも一般的には信じられている。
しかし、デジタル化によって明らかになったのは写真の根源的な部分、すなわち単にフィルムがデジタルに置き換わっただけではなく、「なにが写真となるのか」が真に問われてきているのである。
現代写真アートにおいてその傾向は非常に顕著であり、いまや撮影という行為を行わなくとも、「写真となる」のである。
本書では私自身が制作した「写真」作品を通じてその本質を明らかにするのとともに、ステレオタイプな「写真」の概念をアルゴリズムの観点から解体し、亡霊の言説から打破することを目指した、「絶対的」な写真論である。
もし「写真」という日本語が、「光画」と定着していたとしたら、写真はもっとラディカルで多様な表現のひとつとして展開されてきたのかもしれない。
そしてまた、本書は私が大学院で行ってきた研究としてのひとつの成果(修士論文)でもある。
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