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【研究】アーティスト研究
アーティストを研究する。俗にいう作家論を研究のテーマとして掲げる場合、具体的になにを行うのか。本文はあくまで私の持論であり、美術ではなく、芸術(現代アート)についてである。
なお、自身の研究を行ううえで、その研究の強度を上げるためにアーティストを取り上げることが大前提としてある。アーティストを研究したことによって、「私」はなにを得て、なにを主張したいのかということに、アーティスト研究の本質がある、と私は思っている。アーティストを研究した結果、こういうことがわかりました、のその先にこそ、研究の意義があるのだと。
ひとつは、作品の深掘り。作品の意図、歴史的背景、コンテクストなど、選択した作品について、先行研究、書籍やインタビュー(記事)、YouTubeなどをもとに、このアーティストはある作品でなにを提示して、それと現実問題や動向などと比較・検証することによって、明らかにしていくというもの。
ここで必要となるのは、「私はどう感じたのか」ということが重視され、その視点が独創的であるかどうかが、本質的には問われている。先行研究ではこのように指摘されていたが、私はこう解釈した、がこれにあたる。
もしくは「この作品はコンテクストのどこに位置し、作品を通して世界をどのように捉えるか」など。超売れっ子のアーティストなら先行研究が多く取り組みやすいが、新人や無名のアーティストの場合、その作品をどのように捉えるかが重要となってくるであろう。
もうひとつは、アーティスト自身に対する調査・研究。作品と同様にアーティストの経歴や作品の経緯といった、作品そのものよりもアーティスト自身にまつわることを調査し、その人となりやコンテクストを探ろうというもの。
なぜこの作品を制作するに至ったのか、その時のアーティストをとり巻く環境はどのようなものであったのか、など。それによって、「私」はなにを考えたのか。
どちらの場合においても「なぜ」「どうして」に関するアーティストの制作動機や理由などの部分が重要であり、「なにで」や「どのようにして」である制作の方法は重要ではない。
確かにクラシックな絵画であれば、どのような手法で、なにを用いて、などといった項目について明確にする必要はあろうが、コンテンポラリー(現代)アートにおいては、その手法はアーティストが制作するために選択した方法であって、その点について詳細に論じる必要性は、私は感じられない。あえて深掘りするのであれば、なぜそのような手法を用いたのかという「動機」の点を探るべきであろう。
むしろ、こうした点しか特徴が見出せなかった場合、そのアーティストを選択するべきではないと思っている。鑑賞者は作品の手法や見た目の目新しさについ目を奪われてしまうが、現代アートで重視されているのは、その作品が制作されるまでに至った経緯や動機、そこからそのアーティストがなにを感じ、なにを表現しようとしていたのか、である。
ただし、その制作方法が「確信犯」的に選択されていた場合には、十分に論じる対象となる。
とりわけ、写真においては、一般的にシャッターを押しさえすれば、「写真」となる。
『Aというカメラを用いて、Bのレンズを付け、設定はC、Dのようにして撮りました。』
自身の作品について語る場合、上記のように説明してはいないだろうか。上記は、提示した写真が、写真となる技術的なプロセスに関するものであり、その写真を撮るに至った「動機」が欠落している。
『Eの感じに惹かれたので撮りました。』
制作の動機が好き・嫌いといった感覚的なものではなく、明確に「自分の言葉」で語られている必要がある。どういう問題意識をもって、といった具体的な制作理由を、自身から出てきたテーマであれば、答えられるようになる、はず。
そのため、撮影の方法や機材など、聞かれない限りはあえて答える必要はない、と私は思っている。写真の主体は、撮影者に帰属している訳ではないのだから。とはいえ、鑑賞者は「どのようにして」につい意識が向いてしまう。
なお、自身の作品について自らの言葉で語るためには、インプットとアウトプットの鍛錬が必要不可欠である。インプットについては最近読んだ書籍だと、以下がわかりやすかった。
日本人は「場の空気を読む」ことに長けていると揶揄されるように、「雰囲気を察する」「いわない美徳」が幼少期から自然と身に付いてしまっている。そのため、写真においても「みればわかる」ということがいまだに信じられている。
確かにかつての写真(銀塩写真)時代であれば、そこに「写っている」ものがすべてであるため、写真をみればわかる、というのもあながち間違いではない、のかもしれない。
しかし、現代写真において「見ればわかる」はもはや通用しない。見てもなにが「写っている」かがわからない傾向が非常に強くなっている。それは、いまだに写真=撮るもの、という撮影信仰が根強いため、写された被写体についてあれこれ議論することが多いであろうが、表象しているのは単なる記号(コード)でしかない。
もっというと、何か具体的なものが「写っている」必要すらない。何かが「表示」されているだけなのである。その表示されたイメージを、鑑賞者の記憶と知識、感性などをもとに、それがなにであるのかを理解しようとしているにすぎない。
われわれは無意識のうちに、そこに何かが「写っている」という先入観をもって、そのイメージの意味を「理解」しようとする。しかし、アートにおいて果たして表象するイメージを「わかる」必要があるのであろうか。アーティストの頭の中を100%理解できる人などいないし、ましてやアーティスト自身も理解しきれていないものさえある。
作品を鑑賞しただけでは「わからない」としても、在廊するアーティストやギャラリスト、キュレーター、学芸員などと対話をすることによって、その作品の意図が「わかる」ようになる、かもしれない。
なお、書き方の参考となるのは、以下が適しているかと思う。
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