【書籍】写真論ー距離・他者・歴史
港千尋氏による写真論。私はアルゴリズムが主体となる絶対的な写真論を展開しているのだが、また別のベクトルから「写真」をみていきたい。
現在における人間社会について、港氏は「ポスト・フォトグラフィーの時代」にあるという。接頭語の「ポスト」とは「〇〇以降」を意味するが、本誌における「ポスト・フォトグラフィー」もまた同様の意味で用いられている。
しかし、私は大学院の有志とともに議論している「ポスト・フォトグラフィー」は、単にこれからの写真(もしくは、次の写真)の意味だけではなく、現在進行形、コンテンポラリー・アートにおける写真の輪郭を「ポスト・フォトグラフィー」と呼称している。いずれ、機会があれば展開していきたいとは思う。
本書では写真の誕生から、おおよそ半世紀のスパンで区切ってその動向をみている。
なかでも、最初の半世紀(1820-1860年頃)で、写真表現の可能性はほぼ出尽くされてしまっていること。つまり、写真とは発明からわずか半世紀で出尽くされた「成熟したメディア」であることが前提としてとしてある。
港氏は別書でも指摘しているように、インターネットが一般的に利用されて以降、写真は撮るものから、SNSなどに投稿し、シェアするという一連の行為は、今やインフラと化しているという視点から、「インフラグラム」と呼称している。
そして、2020年代。これからの時代を港氏は以下のように示唆している。
エンタングルメント(entanglement)。聞き慣れない単語ではあるが、量子力学でいう「量子のもつれ」を意味する用語である。
カメラは死なない。それどころか、自動運転やドローンなどの制御システムの中枢を担う役割となっていく。ここに、「カメラ」という用語は、われわれが思い描く一眼レフやコンデジなどといった、いわゆるステレオタイプな「カメラ」だけではない。ありとあらゆる画像を獲得するための、装置としての「カメラ」なのである。
港氏はフランスの社会学者ピエール・ブルデューが提唱した「ハピトゥス」に着目し、写真を社会学・人類学的なアプローチによって、写真家の被写体の選択性などを読み解こうとしている。
写真家はどうしてスタイルを大きく変えることなく、被写体を追い求め続けるのか。そのひとつの解釈として、写真家自身の社会的立場や環境によって育まれる「ハピトゥス」が関係しているのではないか、というものである。
写真論。写真の専門学校時代では、以下が写真の教科書的な扱いであった。
写真とはなにか。撮るもの、撮られるもの、写すもの、写されるもの。そこには主体と客体との関係性があり、「何かが表象されている」ものとして、これまで写真は位置付けられてきた。
さらには、シニフィエやアウラ、メディアや記号論など、その用途や意図、意味などが問われてきた。
光を描く。それまで画家たちは筆を手に取り、キャンバス上に描く作業を行ってきたものが、カメラという装置が発明され、描き方が手作業から機械的なシステムへと移行していった。
写真はその誕生から装置によって生成されるものであるにも関わらず、撮影者の「自発的な行為」によって、写真が作られると信じてやまなかった。
画家が描く明確な意図とは根本的に異なり、写真に表象するイメージはその誕生から単なるシーニュ(記号)にしかすぎない。しかし、鑑賞者はそこになにかが「写っている」ものとして、無意識的にそれが何なのかを理解しようとする。
理解するための元となる情報は個人の脳に断片化された記憶であり、記憶とイメージとがリンクすることによって、そのイメージが何であるかが「わかる」。
数ある写真論は、著者による「写真の見方」や「写真との付き合い方」などを示唆したものである。つまり、写真をどのようなものとして捉え、どういう立ち位置にたち、「写真とはなにか」の問いに対する、その人なりの回答なのである。だからこそ、一般論的な「写真=〇〇である」という明確な答えが存在する訳ではなく、多義的な解釈があって然るべきである。
科学技術はその誕生から進歩し続け、それは今後も変わることはない。装置によって生成される写真もまた、装置の進歩によってその「かき方」がアップデートされていき、「写真」が意味するものもまた時代とともに変化していく。
なお、港氏は本書を以下のように結んでいる。
「写真はすべからく実験である」とニエプスの「実験室からの眺め」になぞらえて港氏はいうように、ヴィレム・フルッサーのいう「ホモ・ルーデンス」、つまりカメラという装置を使って「遊ぶ人」が、写真家であるということとリンクする。
写真家・港千尋氏による、これまで、そしてこれからの写真との関わり方を記した「写真論」が、ここにはある。