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マダムとマーマレード

冷蔵庫を整理していて、奥の方にマーマレードがあったことに気づく。
陽の光を凝縮したような色と味が好きで、特に夏場はついつい買ってしまうマーマレード。それを見つめながら数年前に出会ったマダムを思い出す。
パリのairbnbでホストしてくれたマダム。

人に読ませる程のものでもないけど、私にとって忘れたくない話。

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家は高級住宅街と言われるパリ16区。空港からのタクシーを降りると、すぐそこにエッフェル塔が見える。フランスと言ったら思い浮かぶような、真っ白な壁に青の屋根がずらりと並ぶ閑静な一角。玄関のベルを鳴らし中に入り、パリのアパルトマン独特のあのちっさいエレベーターに乗り込んで、目的のドアをノックする。

出迎えてくれたのは白髪のマダムとムッシュー。
「私はシャンタル。夫は英語があまりできないから必要なことがあったら私に言ってちょうだい」とマダムが手を差し出す。

二人の後ろには古そうな糸車。古くからある家ということを表すような正装した人物の肖像画。ヴィンテージのベトナム産シルクタペストリー。フランスの古典文学が並んだ本棚。こんなものが普通の家にあるのかという驚きながらも、アジアとフランスが入り乱れているのに不思議と調和していて、和洋折衷というか不易流行というか、センスというものに感嘆する。

そんな素敵なうちに数日間ステイしたけど、時折思い出すのは部屋の美しさじゃなくて、シャンタルと過ごした朝の時間だったりする。

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airbnbは宿主によって朝ごはん付きのところもある。シャンタルの家も朝食つき。前の晩に、朝ごはんは7時ぐらいで、と会話して次の日の朝を待つ。

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翌朝7時。既にシャンタルはキッチンにいて、ラジオを聴きながら用意を始めている。白いタイル張りの床、所せましと絵画マグネットが張られた冷蔵庫、年季の入ったラジオ。程よく生活感のある居心地のいいキッチン。bonjourと挨拶をし、椅子に腰かける。

パンは普通の?それともレーズン入りのにする?
ー普通ので

バターやジャムははちみつは?
ーバターと...ジャムで。

紅茶、それともコーヒー?コーヒーにミルクはいる?
ー紅茶で

オレンジジュースはいる?
ーそうね、せっかくだからいただきます

卵は?焼き加減はどうする?
ー目玉焼きで

客人だからというのもあるかもしれないが、なにかと世話を焼いてくれるシャンタル。パリにおばあちゃんがいたらこんな感じなのかもしれない。

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ややボリューミーな朝ごはんが並ぶと、二人で向かい合って座る。キッチンの窓は通りとは反対側の中庭に面していて、喧騒とは無縁。話していない間は時計の音がチッチッチッと響くほど静かで、神聖さすら感じるキッチンでの時間が私は大好きだった。

うちにいる間はこれを使って、と出してくれたカップアンドソーサーで飲み物をいだたく。少し年季の入ったオフホワイト地にピンクのバラが一輪描かれたカップ。これにコーヒーや紅茶を入れながら、色々と話をする(シャンタルが見ていないところで裏返して見たらリモージュのカップアンドソーサーだった。さすがフランス)。

カップに一度に入る量が少ないからすぐ飲み干してしまうにも関わらず、手間と思わずに何度も紅茶を注いでくれるシャンタル。普段、大容量のマグカップで飲み物を飲んでいる自分が雑に感じてしまって、帰国してからカップとソーサーを買おう、と思ったのを覚えてる(と言っても相変わらずマグカップで飲んでるけど)。

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彼女の家には3泊したので、3回食べた朝ごはん。その中で毎朝お願いして出してもらっていたものがある。
シャンタルお手製のオレンジのマーマレード。
甘さと皮の苦みが絶妙で、バターを塗ったトーストの上に乗せて頬張ると、柑橘の酸っぱさが頬の内側を刺激してキュッとなる。そして追いかけるようにバターがじゅわっと頬をほぐしにいく。

そんなマーマレードの酸味とバターの脂味のダブルパンチに頬を内側から攻撃され顔がほころんでいる私をシャンタルは微笑ましく見守っていてくれた(多分)。

ふと気になって
「シャンタルはずっとパリに住んでるの?」と聞いてみる。
「ええ、私も夫も仕事がこの辺りだったから」
「生まれも?」
「夫は違うけど、私はそうよ。私の母も、そのまた母もパリ生まれ」

シャンタル、生粋のパリジャンヌじゃないか・・・軽く衝撃を受けている私を横目に、昔はそうでもなかったけど、今のパリのアパルトマンは値上げがひどくて今の若者が買うのは厳しいぐらいなのよね、とかそんな話を彼女はしている。

一箇所に、しかも万人の憧れ花の都にそうやって根ざして生活できるってどんな気持ちなんだろう。引っ越しばかりしてきた私は少しうらやましくなった。

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そんな生粋のパリジャンヌにも別れを告げる日。
今までありがとう、と挨拶をしてスーツケースを持って出て行こうとする私を呼び止めるシャンタル。「これを持って行って」と瓶を渡してくれる。
「あなたがとても気に入ってくれたマーマレードよ」
泣きそうになる私。

「とても嬉しい。これを食べる度にあなたを思い出すわ」と私(下の写真の青いラベルのものが渡してくれたマーマレード。日本に帰ってからおいしくいただいた)。

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「もしまたフランスに来ることがあったら教えてちょうだい。また会えたら嬉しいわ」と、お別れの握手をする。部屋の外の小さなエレベーターまで見送りに来てくれる。またね、と。スーツケースを入れ終わって閉めるボタンを押す。

彼女の家を後にし、7月の陽が注ぐ通りに出る。胸には生粋のパリジャンヌの思い出を、スーツケースにはオレンジのジャムを詰めて、空港行きのバスに乗った。

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マーマレードを見る度にそんなパリジャンヌと過ごした朝の時間のことを思い出す。




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