2023.2
踊ったときの書き付けたちです。
今見れば「うわあ何言ってんだ」と思うこともありますが、そのときそのときでくるくる考えてることが変わってるのが面白いので共有してみますー。
その1
くそ。悔しいぜ。何がって、「かっけぇ…」と思わせることができなかったこと。有無を言わさず、なんかわからんけどかっこいい、を作りたい。あまりにもかましてやろうと思いすぎたかもしれない。今まで形式に支えられていた部分、帯があったこと、三味線、ストーリーが所与だったこと、これらの諸々が紐解かれて、自分で支えていかなきゃいけない。でもだからこそ、着るものとして、着物を感じることはできるだろう。あの子が言ってた着物とのコンタクト。そこを出発点に踊りたい。着物が肌をたどる線を愛しんで、それを私が知ってる踊りの形にコントロールしていく。他のパートはカウント忘れるわ首動かせないわでぴえんやけど、そうれは要練習だ。首のあいそれ動画見てから寝よう。
そもそも身体一つでの勝負だから、私自身の日舞の稽古が足りてなくて悔しいのもある。毎朝構え。(←結局しなかった)すきアラバずっと踊る曲を再生しよう。
そこに像を持ってくるために、身体のリズムをコントロールしていくとそれが踊りの形になるということだろう。だとしたら、私はそれぞれのパートで役が必要で、その切り替えを意識的に行う必要がある。今日はその意識が抜けていた。役作り役作り。笑。
その2
自分と相手の間にいること、押し合うこと、預けること、下手に力が入っていたこと、集中の問題、日々の稽古の問題、筋力の問題。身体のどこにも重さはある。
その3
改めて動画を撮って自分の振りや姿勢を見返して思ったのは、今までいかに着物に踊りを支えてもらっていたかということ。今回の舞台では、ただ生身に浴衣を羽織って兵児帯を結ぶだけ。いつも意識している肩と胸のラインに力をいれるのに加えて、さらに肋骨の下の方にも力をいれる必要がある。なるほど、だからダンサーは筋トレをするのだなと納得した。姿勢の感覚はだいぶ取り戻せたと思う。あと目線の動かし方も思い出した。すかしてみる。遠くをぼんやりとみる。基礎の型を思い出したところで、あとは何になりたいのイメージを持っておきたいと思うから考えないと。表したいもの。のっけたいもの。どうしても伝えたいと思うもの?自分の感情を引き出して踊るのはなんだか違う気がするんだよな。頭の中の妖精。が動き回る。ホームシックは、激しく悲しいモノじゃなくて、ふとやってくる。懐かしい匂いに釣られる。自分の姿を確認する。新しい場所に惹かれて、ずっと、「ここじゃない、ここじゃない、」を繰り返す自分。悔しい。手振りのレパートリー。静かであること動かないことは何もないことではない。
その4
着物を着るように服を着たい。袖を通したときの安心感?なんとも言えない心地よさがある。
ダンスダンスダンスーるに出てきたバレエのパントマイムの話を思い出すわ。
悔しさその1。かっこよかったよ、と思わず言わしめるほどの何かがなかった。
悔しさその2。自分自身がこれは美しい、やり切った、と思えるようにできていなかったこと。
悔しさその3。あしらわれたこと。なっめんなよまじ。目くらい合わせろやくそが!
届けたいものとか運びたいものとかぼーっと考えたとき、やっぱり私は着物が好きだし、動かない静かな美しさが好きだと思う。好きなものの痕跡。何かが通ったあと、現れたあと。ちゃあちゃんやじいちゃんに届けたいなあ。透かしてみる。顔を使わない。
じいちゃんのいる過去。ずいぶん遠くに行ってしまったように感じる記憶と新しい場所はなんだか似通っているところがあるのかもしれない。
もう少しだけ近くにいている、今の自分に直接つながってそうな記憶。
自分がかっこいいと思っているもの、美しいと思っているものが受け入れられないときもある。その逆も然り。
私を構成するものとしての着物。色選びの仕方。空気を袖と一緒に纏う感覚。
私の見ている世界、身体の内側にある世界を共有したいなあ。「綺麗なあ。」あの子はきっと陰の感性がある人なんだろうなあと思う。
思考が行きつきそうで行きつかなくてバラバラと言葉だけが散らばってる。
その5
私がここに留めたいリズムはなんだろう。あーそうか、ずーっと昔の人の呼吸。勝手に日本は背負いたくはないけど、ガラパゴス的日本の中で誰かが追求してきたリズム。間の美学とかそういうもの。ワンツースリー、に収まりきれないリズム。