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「わかるよ」なんて言えない

先日、東京・青山にあるギャルリーワッツの山本詩野さんと写真家の中川正子さんのトークイベントに行ってきました。
(そのときのことは、Instagramアカウントでもpostしています)

トークテーマは、「こころのひだ」について。

ギャルリーワッツを立ち上げた、今は亡き川崎淳与さんの生きざま、
おふたりの子育てや仕事のこと、そして、数々の経験に裏打ちされた哲学に触れる時間。


「そうそう、私もそうだった」
「いつか、あなたもわかるようになるよ」
人生の経験や考え方、ひとりひとり固有のものであるはずなのに、
ひとまとめにしてしまうような言葉には、ある種の暴力性が潜んでいる

おふたりのお話しより

思わず言ってしまいそうになる、上のような共感のことば。
もちろん、共感のことばによって救われる場合だってある。
特に育児においては、自分だけではないと知ったときの安心感。心強さ。
共感から広がっていく世界の豊かさも、確かにある。


けれども、
自分の経験してきたことの範疇で物事を語り、他者を無自覚的にその枠に入れてしまうことがある。
その態度は、相手をわかろうとしているように見えて、本当の意味でわかろうとしていない。

そもそも、「わかる」ってなんだろう。

会話の中で、じれったくなって、相手の言葉を迎えにいってしまうことってないだろうか。
相手の言葉を、生のままに受け取ることが、私にできているだろうか。

わかる「かもしれない」その感覚を、どうにかして相手に伝えたいと思うとき、人はどんな言葉を選び取ってゆくのだろう。

頭の中がそんな問いの数々でいっぱいになって、トーク中、訳もなく涙ぐんでしまう。
ハンカチで拭いたいけれど、最前列の席で、おふたりに近いところに座っているものだから、急にカバンの中をガサゴソとし始めるのどうかと思い、とめどなく溢れる涙はそのままに、服を濡らしていた。


気づきを与えてくれる場、もっと言うと、問いを与えてくれる場が、私は好きである。引き寄せられるようにそういった場に出向いては、問いを持ち帰り、また明日を生きようと切に思えるのである。

2024.10.7
雨の降る日に




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