\ぎゅっと/【自己紹介♡その②】ワンオペと仕事と趣味と
保育園が見つかった!
東京砂漠で、しかも年度末も見える時期に
普通に保育園に預けるのはほぼ無理。
ふとした時、
2週間前に開設された無認可保育園があることを知り、慌てて電話をする。
「うちでみられますよ。」
息子を連れて慌てて、園を訪問、面談etc.。
ちょっと素人な感じの先生が対応してくださり、
本当に大丈夫なのだろうか💦などと思いながら
預け先が決まった瞬間だった。
約束通り復帰できちゃう。
復帰できないという選択肢はなかったので、
会社にはそのまま、予定通り復帰できますー、と返事をしたような・・・。
この時、育休延長制度とか、、、なかったのかな😔
慣らし保育の何日かを使って、
すっかり体型が変わったのでスーツやら靴やらを買いに行ったのかな。
その一週間は、子供と離れるのも不安で
会社に戻るのもドキドキで、
慌てふためいていたからかあんまり記憶にないな。
何してたんだろう、私(笑)
誕生日の日から出勤なんて
息子が誕生日の日に職場復帰し、
あらためて日本社会の非情を知る。
1歳の誕生日ぐらい見届けられる制度にならんのかな。
なので、パパもいる日に誕生日前祝い。
久しぶりの出勤の日、子供と離れる寂しさもありつつ、
帰ってからどうやって誕生日祝いをしてあげようか、
元気にやってるかな、とか
とにかく生活が心配だったことは覚えてる。
仕事で何したのかは一個も覚えてないけどね。
時短制度は、この会社の辞書にはない。
復帰前は外勤職。
そして、フルタイムで復帰した。
なぜって、
「時短を取るなら外勤には出せない」
と、当時の偉い人に言われた。
内心、
「は?」
と思ったよ。
これって、訴えたら勝てるやつなのかな?
そう思いながら
「そういうことならやってやろうじゃないの。」
と、ほとんど意地だった。
どうやったら仕事が早く終われるかを考え
いかに時間をかけずに仕事するかを
追求していくスタイルになっていく。
残業してたらお迎えには間に合わないので、
就業時間終了と共に会社を飛び出る生活。
どうやったら最短の時間で外勤先から帰れるのか考えつつ。
これ、全社員がやったら、効率上がるのにな。
主人は残業たくさんできていいな。
そんなことを思いながら働いていた時期。
一緒に仕事ができるひとの存在
書いていて、ぶわっと当時のことを思い出した。
一つ、救いだったこと。
この時期は外勤にサブ担当をつけてもらえていた!!
教育係、兼ではあったけど、ペアで仕事ができた時期だったから
どうしても・・・の時は分担させてもらえたのが
仕事が続けられた理由だったかも・・・。
一人だけで頑張っていたわけではない。
本当に、助けてくれる「ひと」に恵まれていたから
きっとこの時は続けられていたんだな。
家事も、仕事も、
理解してくれるひとが一人いるだけで
状況はだいぶ違うよね。
転職を思い立つ
職場も預かり時間を考えると、
朝早い上に夜が遅く、お迎えも時間ギリギリ。
いつもPCを持ち歩くので荷物も重い。
さらに、スーツとヒールでダッシュする生活に疲れ切った。
当時、少し経験年数も積み、
通常業務に重ねて、新人教育担当も行い、
役割を終えた感があった。
もう、ここで頑張るのは、いいや。
そう、心から思えてしまったので
別の会社を選択することにした。
大きくは生活もやることも変わらないのだけど、
若干時間に融通があり、
育児にも理解がある人がいる製薬関連企業に転職。
慌ただしいながらも、時間のコントロールが自分でできた。
誰よりも多いデータを扱う必要があったので
エクセルの鬼と化した。
他の人と同じ量を同じやり方でやったら終わらない。
どうやったら無駄な作業をせずに
他の人と同じだけ仕事ができるか突き詰めた。
「効率良く処理すること」、
「人為的なミスを減らすために必要なこと」、
について、ここで深く考えた経験が
その後の自分の武器になっていったと思う。
東日本大震災
主人が関西に単身赴任中。
私は出張帰りで被災。
中央線の電車の中に閉じ込められる。
大きな地震のせいで外で木がビリビリ揺れていた。
隣の人と、大きな地震ですね・・・と会話したのだけ覚えている。
そこから、大事な書類を持っていたので
一旦帰社し、携帯が使えなかったので、会社の電話から
息子の保育園に電話して無事を確認。
実家にも電話して無事であることを伝えた。
ただ、主人と連絡が取れない。
テレビを見ている訳ではないので、惨状もわからない。
待てど暮せど電車も動かない。
これはまずい!
4時間ほどかけて、徒歩で息子を迎えに向かった。
だんだん日が暮れてくる。
保育園に着いたのは夜の10:30。
不安な気持ちの息子と、二人で家に帰った。
会えてよかった。
帰ってこられてよかった!
帰って初めてテレビを見て、惨状を知る。
お風呂でも揺れる、警報音が鳴る。
原子炉はひどいことになる。
津波の映像が何度も流れる。
涙が止まらなくなる。
メンタルはそこそこ強め(鈍い?)私でも
涙が止まらなくなる時があったので、
相当なストレスだったのだと思う。
親子で震えた日々が思い出された。
(でも、息子に聞いても、
保育園で布団で横になりながら待ってたことと
警報音で机の下に隠れたことしか覚えてないんだって。)
事業継続に社会的使命があるからと
単身赴任中の主人は頼れないから自分しか迎えにいけないのに、
何かあったらどうしよう・・・。
会社では出社を求められる。
ちょっとした余震でまた電車が止まったら。。。
かなり毎日ピリピリしながら過ごした。
運動靴も会社に置くようにした。
そして、
パンを焼けなくなった。
<その③へ続く>
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