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奇跡講座ワークブック12~17
レッスン12
私が動揺しているのは、意味のない世界を見ているからである。
【私の記録】
私が世界に攻撃的な属性を与えているなら、私がやっているなら、もう本当にやめたいです。
でも、攻撃だけではなく、私が世界に書き込んだ「すべて」が、良いも悪いも「すべて」が、取り消される必要があるのですね。
でも私は、私のお気に入りを手放したくありません。
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本文より
5. 意味のないものは、よくも悪くもない。それならなぜ意味のない世界があなたを動揺させるのだろうか。もしあなたがこの世界を意味のないものとして受け入れることができ、そこにあなたのために真理が書き込まれるままにすることができたなら、それは言葉に尽くせないほどあなたを幸せにするだろう。しかし、それが意味のないものであるからこそ、あなたは自分が望む世界像をそこに書き込まずにはいられない。あなたがこの世界の中に見ているのは、これである。真に意味のないものというのは、これである。あなたの言葉の下には、神の言葉が書き込まれている。今は真理はあなたを動揺させる。しかし、あなたが書き込んだ言葉が消しさられたときには、あなたは神の言葉を見るだろう。それが、これらの演習の究極の目的である。
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どうしても、この世界では対極を経験するのは仕方ないです。
良い↔️悪い 幸せ↔️不幸 満足↔️不満
喜び↔️悲しみ 愛↔️憎しみ
それらすべては、個人的主観により体験しています。幸せだけを体験することはあり得ず、
不幸があるからこそ、対極の幸せを感じることができる訳です。
この世界にいながら、幸せだけを感じることは不可能なのに、それを願ってしまうのは、まさに「探せよされど見つけることなかれ」をやっているのかも知れません。
どちらも取り去られた時に、真理が現れるのですね。
私が世界に書き込んだ言葉のすべてが、ひとつ残らず消し去られた時に、神の言葉を見るのですね。そこに留まることが出来た時、天国の手前にいることになり、それが奇跡講座のゴールなのですね。
私の世界が変化してきたのは、世界に書き込んだ悪口が消えてきたからなのでしょうか。
ほぼ毎日が穏やかで、感動的でもあります。
最近、受け入れ難い人物との出会いがあったので赦しました。またひとつクリアになりました。兄弟姉妹は、私の闇を上げてくださる天使です。本当にありがとうございます。
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レッスン13
意味のない世界は恐れを生み出す。
【私の記録】
やっぱりまだ分からないのは、
本文の
神と競争していると考えているからである。
というところです。
私は、とてもそんな風には思えないです。
神と競争する意味も分からない。
すっかり神を忘れている状態、と言うのなら理解できるけど、神と競争という表現は、未だに理解不能です。
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レッスン14
神は意味のない世界を創造しなかった。
【私の記録】
奇跡講座では、神はこの世界を創造していないと教えています。神が世界を生んだと信じていた私は、一巡目は非常に驚きました。美しい景色を見ると、神の偉大さに触れるような感覚がします。それは今でもします。
神を思わせるほどの美しい夕焼けや、美しい海、大自然、それらを創造したのが自我なのだとしたら、それが神の力の誤用なのでしょうか?
本文より
神が創造しなかったものは、神の心から離れたあなたの心の中でしか存在できない。
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レッスン15
私の考えは、私が作り出した形象である。
【私の記録】
光の縁取りとは、どんな風に見えるのだろう?
それは、オーラとは違うのだろうか?
オーラなら見ようとすれば見えるんだけど。
光の体験は、最初は目を開いている時に、片隅で点滅する小さな白い光が見えていたけど、全く怖くはなく、不思議だったけど、静かに受け入れていたのを覚えています。まだ奇跡講座の学習を始める前でした。
光の縁取りが見えたら、真のビジョンのはじまりだと書いてある。サイキック能力と混同しやすいなと思った。
形象という言葉にピンと来ないのだけど、イメージという意味で使われている。
私が思い描くものが、世界に現れ出てきていて、肉体の目でそれを見ていて、それが世界だと信じているけど、それはすべて幻想なのだ。
移り行くものは、すべてが幻想なのだ。
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レッスン16
私に中庸(ニュートラル)な考えはない。
【私の記録】
スピリチュアル界隈では、中庸が語られて推奨されているのに、中庸はないとキッパリ、バッサリと書いてあるので、一巡目は驚きました。
スピ界隈の中庸とは、気持ちを揺らさないように、心に波が立たないように、心が静まっている状態を保つように努力することを、『中庸を行く』とか言っているのかな?
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本文より
3.考えは決して無為なものではないと認識することに加えて、救済のためには、自分が抱く考えはどれも平安か争いか、愛か恐れかのどちらかをもたらすと認識することが必要である。
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私はテキスト序文の
『愛の対極は恐れであるが、すべてを包み込むものに対極はありえない』が大好きです♡
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レッスン17
私は中庸(ニュートラル)なものを見ていない。
【私の記録】
ニュートラルな考えをもっていないので、ニュートラルなものを見ていない。
自分が先で、世界が後。
世界がニュートラルじゃないから、そのせいで私の考えもニュートラルになれない。
これは、世界が先で、私が後。
『内的状況の外的映像』なのだから、
常に、私が先で、世界は後。
これは、自分の力を取り戻す為の、大原則のように思う。すべては自分が創っている。
恐れの投影ではなく、愛の延長を、
聖霊に導かれて経験することを望みます。
最後までお読みくださりありがとうごさいます。
Blessings.