「花束」はきっと希望の象徴じゃない
『花束みたいな恋をした』を見てきました。映画館で見てから数日経つけど未だに引きずってるので、どうせならと思って文字に起こしてみました。
いざ書いてみたら、気づいてなかった自分の考えに気づくこともできたので一石二鳥です。自己満です。
ただ、すごく長い。長いので、快くも読んでくれるという方は暇つぶし程度に、何を言ってるんだこいつはくらいの感覚でチラ見してみてください。ネタバレも含まれているので、まだ見てない方は読まない方が身のためかもしれません。
では
「popeyeヘビーユーザーです」みたいな顔させて
2カ月に1回くらい買うpopeye。毎月買ってるわけじゃないのに「popeyeヘビーユーザーです」みたいな顔して、「好きなんだよね、popeye」って言っちゃう自分、愛せるね。
そんなpopeyeの3月号読んでたら、池田エライザのコラムを見つけた。「池田エライザの大人になるもんか」ってタイトルもなかなかいいよね。今回は上白石萌音との対談。そこで語られてたことが、これまたなかなか響いた。
たまに映画の評価を見て、びっくりすることがあるの。「不愉快な気持ちになった」って。でも長い時間をかけて、不愉快にさせようと思って作ってる人なんていないじゃない?
映画を見てるといろんな気持ちになる。登場人物に感情移入して涙を流すこともあれば、それこそ期待してたほどの映画じゃなくて気分が悪くなることもある。でも池田エライザが言うように、映画は誰かを不愉快な気持ちにするためには作られてなくて。やっぱり目を向けるべきなのは見えることじゃなくて、見えないことなんだろうなって。そんなことを気付かされたコラムが頭から離れなかった。
『花束みたいな恋をした』、気づいたら見てた
菅田将暉のANNを聞いてる俺は「オールナイトニッポンヘビーユーザーです」みたいな顔して「『花束みたいな恋をした』見たいんだよね」って、ここ最近言ってた。
popeyeのコラムを読んだのはそんな矢先だった。根がミーハーで流されやすい性格の俺は気づいたら映画館にいて、気づいたら「花束みたいな恋をした」見てた。
先入観なしに見たかったから、予告編を一つ見た以外は何の情報も入れないようにしてた。そうして見た映画には間違いなく万人受けしないだろうなっていう雰囲気が漂ってて、「映画は誰かを不愉快にするためには作られてない」、ちょうどそんなことを思い出させた。俺は「万人受けしない」が好きなんだ。
この映画の公式HPとか予告編を見ると「純愛ラブストーリー」って言葉が目に入ってくることが多い。「純愛か~」。これを見る人たちには自分なりの「純愛ラブストーリー」があって、人それぞれ「純愛と言えばこれ!」みたいなイメージを持ってると思う。それに対してこの映画は、世間一般のいわゆる「純愛ラブストーリー」とは一線を画してる気がした。そこまでキラキラしてないし、後に残る余韻は重たい。だからこそ万人には受けないし、裏切られたって思う人も多いと思う。
ただ、リアルで良かった、っていうのが見終わった後の素直な感想だった。恥ずかしくなるくらいのリアルで、恋愛ドキュメンタリーを見てるような感覚だった。ガラス1枚を隔てた目の前で2人の生活が繰り広げられてるようでもあったし、自分の生活の1コマを切り取られてるようでもあった。(まあ恋人もいなければあんないい部屋にも住んでない俺は多分自分の理想を投影してただけなんだけど。)
やりすぎポイントは確かにあった
とはいえ、あれもこれも趣味が一緒で、あれよあれよという間に意気投合する二人の、その過程はやりすぎだろって笑っちゃった。
穂村弘、いしいしんじ、小山田浩子、野田サトル。本の趣味が全く一緒なのは一歩譲って許そう。帰り道の、じゃんけんのグーとパーのくだり。「僕も全く同じこと考えてたんですよ!」。どんだけ~~~~~。って突っ込みそうになった。やりすぎ都市伝説もいいところだよ。
映画を見終わってからしばらくはそのことにモヤモヤして、「気が合うフリをするのはそんなに大変じゃない」って言葉を思い出した。「ほぼうちの本棚じゃん」の状況は羨ましいがすぎるけどね。
見えるもの、見えないもの
でもこの映画のモヤモヤポイントはそんなもんで、その後のストーリーは図々しくも自分のことのように思いながら二人の世界に入り込んでた。
万人受けしないって言ったけど、それこそ高校生の自分がこの映画を見たら今ほど感情移入はできなかったと思う。言葉では多く語られなくて、むしろ言葉以外の要素が言葉以上に語る。スニーカーから革靴へ。おそろいの靴から違う靴へ。小説からビジネス本へ。そうした描写の変化を見るだけでも、二人の関係が変わっていってるんだろうなって思わされる。そして恋人から他人になってしまう二人。
見えないものにこそ大事なことが隠されてる。俺がそう気づいたのはつい最近のことで、それに気づいてから良くも悪くも行間を読む癖がついた。行間から何を読み取るかも人それぞれで、受け取る側の人生経験によっても大きく変わるだろうなと思う。「はな恋」は終わりに近づくにつれて行間が増えていった印象がある。二人の間で交わされる言葉数が少なくなっていって、恋人としての二人の終わりに向かっていく。言葉では語られない部分に麦と絹、それぞれの感情が表現されてる気がして、そういう映画好きなんだよなって思いながら見てた。
「ずっと一緒にいたい」ではずっと一緒にいれない
多くは語られないからこそ、それ以外の要素からいろんなことを考えさせられる。そして多くは語られないからこそ、少ない言葉の中から多くのことを考えさせられもした。その中でも「絹ちゃんとずっと一緒にいたい」って言った麦の言葉が引っ掛かった。
川沿いのアパート、二人の好きなものに囲まれた部屋。ウッドデッキを並べて、二人の肩に寄り添って過ごした居心地のいいベランダ。天気のいい日に麦が発した「ずっと一緒にいたい」「ずっと一緒にいようね」って言葉。そして、そのあとの絹の表情からは言葉に詰まってる印象を受けた。
映画を通してどちらかと言えば絹に感情移入してた俺は、その時「『ずっと』なんて重い言葉を軽率に使わないでほしい」と思った。ずっと一緒にいたいっていうのは麦のエゴで、「ずっと一緒にいてほしい」っていうのはエゴの押し付けだと感じた。その時の絹の表情、そのあとの間から何かを感じることができなかった麦は自分が発した言葉の重みに気づいていないんだろうとさえ思った。麦にとっては二人が未来もずっと一緒にいることは当然で、それ以外の道は見えていない。少なくとも俺からはそう見えた。
絹に感情移入した。それはつまり、俺ニアリーコール絹、そして言ってしまえば、俺ニアリーコール有村架純なわけで。(人生で一度でいいからトム・ブラウンのテンションで「ダメ―」って突っ込まれたい。)
なにはともあれ、一つの道だけを見てるっていうのは、逆を返せばほかの道を切り捨てるってことにもなりかねない。自分を絹に投影してた俺はその瞬間に自分の未来、可能性を制限されたような気分になった。
絹が読んでたブログ。始まりは終わりの始まりの言葉。作中何度もその言葉を反芻してた俺は、最初はそんな悲観的な考えかたしなくたって、って思ってた。だけど、「ずっと一緒に」って言われた途端に「終わりが始まった」って思ってしまった。
始まりは終わりの始まり。俺ははじめ、「ずっと~」から「終わり」が始まったと思った。でも、「終わり」は何もそこで始まった訳じゃないのかもしれない。初めから「終わり」はやっぱり存在していて、見えなかっただけなんじゃないかと。「ずっと一緒に」。この言葉みたいに、何かふとしたことをきっかけに「終わり」が見えるようになる。
見えなかったものが見えるようになる。それだけのことなんじゃないかと。人間である以上別れは必然で、それは平等に与えられてる。いつかは「終わり」を予感して、それは必ずやってくる。そしてそのタイミングは人によって違う。
麦と絹にとっては、そのタイミング(「終わり」のタイミング)が二人が付き合ってから5年目の年だった。それだけのことなんだろうな。そんな冷めたことを考えながら、悲観的と現実的は紙一重なのかもしれないと思った。
すれ違ってる二人の関係に気づいた瞬間、「どこからだ」と思った。どこからすれ違いは始まってた。記憶を辿ってたどり着いたのが、「ずっと一緒にいようね」って言われたときの違和感だった。そこから二人はきっと別れに向かって進んでた。
すれ違う二人は、いつの間にか同じ方向を向けなくなってた。本の趣味が変わって、生活スタイルが変わって。二人の関係が変わっていく。
変わること、変わらないこと
絹が「広告代理店」だからと揶揄した彼女の両親。その両親が言った「人生は責任」に対して、残業中の麦が言った「生活は責任」の言葉。現実に引っ張られていく麦に対して、絹は「うちの親に影響されたんじゃないの」と言った。一度はそれを否定した麦は知らず知らずのうちに夢も忘れて、そんな社会の常識にがんじがらめになった絹の両親と同じ思考回路になっている。絹はそれに対して疑問を投げかけ、それでもなお彼に歩み寄ろうとする。けど自分が変わってしまったことにすらすぐには気づけない麦は、絹の方こそ自分のことを理解してくれない、と思う。喧嘩中、露骨に「めんどくさそう」な顔をする麦を見てそう思った。(にしても「めんどくさそうな」顔をする菅田将暉の演技うますぎ)
正解、不正解では生きづらい
週末も返上してオン・オフもなく必死に働く麦は、きっと二人の将来のためにっていう思いだったんだろう。「生活のために」「二人のために」。もちろん生活は大事で、そのためにはお金も大事。なんだけど、生活のために生活を犠牲にしてまで仕事してたら元も子もなくて。結局は「二人のために」って思う麦の考えもまたエゴなんだろうな。彼自身はどこまでも二人の未来にひたむきで、それを疑ってない。いつかは結婚すると思ってて、「子どもをつくって」「3人か4人で」「たま川を散歩したり」するのが彼にとっての幸せで。
「嫌なことしたくないなら、仕事もやめて家にいればいい」「好きなことだけしてればいいじゃん」
どこか地に足のついてない生活に焦りを感じてた麦にとって、二人のために必死に働いてる自分は正義で、やりたいことだけやろうとしてる絹は甘えてるように映ったんだろう。「家にいて好きなことだけしてればいい。」それはつまり、何もするなって言ってるのと同じこと。相手の気持ちや可能性に見切りをつけて、こんなもんだろ、って決めつけてるのと一緒。それが見ててつらかった。
でも、社会で必死に働いてる人が正義で、そうじゃない人はダメ、みたいな思考は社会に蔓延してると思う。だからこそ社会は誰かにとって生きづらいんだけど。働くために生きるか、生きるために働くか。どっちが良いとか、悪いとかではない。けど、なんでもかんでも正解、不正解で区別しようとしてしまう思考はどうしても窮屈。世の中には正解でも不正解でもないことが圧倒的に多くて、わけわかんないことばっかり。でも、それが分かってるだけで適当でいいんだって思える気がする。
「花束」はきっと希望の象徴じゃない
こんなことを考えさせてくれた映画は久しぶりで、フィクションを見てるようには思えなかった。人間って、日本人って、自分って、こんな感じだよな。そう思った。
長々と考えて、最後にタイトルに振り返った。
「花束みたいな恋をした」
始まりは終わりの始まり。そうやって考えると、花はいつか枯れる。必ず終わりがやってくる。そういうものの象徴として花束が恋と結びつけられたんじゃないかと思った。切ないね。「純愛ラブストーリー」。切ない恋の物語のことをそう言ってるのかな。
花はキラキラしてて、生きてる間は生命の象徴のような気がする。だけど、枯れない花はない。それこそ花屋で売られる花は、終わりが見えてるものだ。刈り取ってしまった時点で「終わり」を予感することになるから。ドライフラワーにすることはできるけど、それは花の生命が終わってる状態で。(綺麗だからいいんだけどね。好きだし。)
そんな花を集めた花束は、「終わり」が見えてるもの。そんな意味で、きっとこの映画の中では希望の象徴というよりはいつか終わりを迎えるもの。その「終わり」の象徴として「花束」は使われてるんじゃないか。と恐れながら愚考しました。
長かったね
実にここまで長々と書いてしまった。ここまで読んでくれた人には飴ちゃんあげます。映画を見て既に数日たってるけど未だに引きずってて。どうしてもこのモヤモヤした気持ちを文字に起こさざるを得ませんでした。20歳そこそこの若造がこの映画を見て感じたこと。駄文でつづられた僕の思いに付き合ってくれてありがとうございました。
久しぶりに言った映画館で、またいい映画を見ることができた。
本も読もうかな。
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