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「ひとはなぜ戦争をするのか」を読んでパレスチナとウクライナを考える

「ひとはなぜ戦争をするのか」
A・アインシュタイン S・フロイト
浅見昇吾 訳
解説 養老孟司 斎藤環
講談社学術文庫


戦争が終わらない。
パレスチナでもウクライナでも。
毎日普通に生活している人間が殺されていく。

なぜ人間は人間を殺して生きようとするのか?

その答えのひとつがすでに1932年に示されていた。 

ふたりの天才、アインシュタインとフロイトの往復書簡がそれだ。

「ひとはなぜ戦争をするのか」

往復書簡は当時の国際連盟の依頼でアインシュタインからフロイトへの手紙で始まった。

「人間を戦争というくびきから解き放すことはできるのか」
とアインシュタインはフロイトにテーマを示した。

「人間の心の中にこそ、戦争の問題の解決を阻むさまざまな障害がある」とし、

心理学者のフロイトなら「この障害を取り除く方法を示唆できるのでは」と問いかけた。

その上でアインシュタインは早速ひとつの解決策を提示した。

「すべての国家が一致協力して、ひとつの機関を創り」「立法と司法の権限を与え、」「解決を任せ、その決定に全面的にしたがうようにするのです。」

「司法機関には」「権力➖高く掲げる理想に敬意を払うように強いる力」「が必要なのです。」

「国際的な平和を実現しようとすれば、各国が主権の一部を完全に放棄し、自らの活動に一定の枠をはめなければならない。」とした。

当時の国際連盟の不完全な組織力と行動力への不満を背景に述べたものだが、現在の国際連合になっても、状況はあまり変わらない。

国際連合の主要機関である国際司法裁判所がイスラエルの武力行使を違法と裁定しても、それ以上の具体的措置を行なうのは難しい。理由として、国際連合が各国から独立していなく、事実上大国に支配されているからだ。

アインシュタインは、さらに、
「人間の心自体に問題があるのだ」と主張、
例えば、「国家の指導的な地位にいる者たちは、自分たちの権限が制限されることに強く反対」する「権力欲」を持っている。
同時に「権力欲を後押しするグループ」「戦争の折に武器を売り、大きな利益を得ようとする人」「少数の権力者たちが学校やマスコミ、そして宗教的な組織すら手中に収め、」「大多数の国民の心を思うがままに操っている!」

このアインシュタインの言葉は、第一次世界大戦を経験した後の1932年のものだが、社会構造は現代も基本的に全く変わっていない。

「このようなことがどうして起こり得るのだろうか?」とさらに問いかけ、人間の心の問題に言及する。

「人間には本能的な欲求が潜んでいる。憎悪に駆られ、相手を絶滅させようとする欲求が!」

アインシュタインはその答えを心の問題の専門家フロイトに求めた。

フロイトからアインシュタインへの返信は、2ヶ月も経たないうちに行われている。

フロイトは、アインシュタインが述べた「権利と権力」の関係を「権利(法)と暴力」に置き換えて話を進めた。そして「権利と暴力は密接に結びついている」と述べた。

「人と人の利害の対立、これは基本的に暴力によって解決されるものです。動物たちはみなそうやって決着をつけています。」

「敵を殺害することには二つの利点があります。第一に、その敵と再びあいまみえる必要がなくなります。第二に、他の敵への見せしめになります。」

うーん!となると、現在の戦争も人間の心が必ず持つ暴力によるものだから、防ぎようがないということ?解決の希望は無いのか?

フロイトはその答えとして、
「戦争を確実に防ごうと思えば、皆が一致協力して強大な中央集権的な権力を作り上げ、何か利害の対立が起きた時にはこの権力に裁定を委ねるべきなのです。」
その条件として、「現実にそのような機関が創設されること」「自らの裁定を押し通すのに必要な力を持つこと」とするが、
「個々の国々が自分たちの主権を(国際連盟に)譲り渡す見込みはほとんどありません」と悲観している。

このあとフロイトは心理学者として、人間には「生の欲動(エロス)」と「死の欲動(タナトス)」があると紹介した。「生の欲動」は、生命を維持し保存しようとする欲動。「死の欲動」は、生命を破壊し殺害する欲動。二つの欲動は対立するものではなく、お互いに複合的な関係を保ちながら人間の行動原理を司っているという。

「生命体は異質なものを外に排除し、破壊することで自分を守っていきます」

生物学的には当たり前のことだが、自分が人間として生き続けるために自分の体に入って来たウイルスを攻撃破壊するこのことこそ、人間の「生の欲動」と「死の欲動」の複合的な行動原理を具体的に示したものと言えるだろう。

これを現代の戦争に置き換えて考えてみよう。

ナチスドイツなどに追われたユダヤ人(ユダヤ教徒)が、自らの生存のために先住民のパレスチナ人の土地を略奪しパレスチナ人を虐殺し、イスラエルという国家を樹立し、今日に至るまで一貫して土地略奪とパレスチナ人虐殺を続けている。

ロシアが、ウクライナ人の民族独立を事実上認めず、旧ソ連の領土支配当時に逆戻りさせるために、クリミア半島に始まりウクライナ全土に侵略戦争を継続する。

さきほどの「生命体は異質なものを外に排除し、破壊することで自分を守っていきます」をパレスチナとウクライナに当てはめると、

「イスラエルはパレスチナを外に排除し、破壊することでイスラエルを守っていきます」

「ロシアはウクライナを外に排除し、破壊することでロシアを守っていきます」

現在の戦争状況は自然界の敵対する動物の殺し合いによる解決と同じだ。
人間の「生の欲動」と「死の欲動」の複合的な関係が国家レベルで表れているとも言えるだろう。

もちろんイスラエルも一枚岩ではなく、パレスチナ自治区の人のことを思い、不幸の連鎖を断ち切るために行動する平和主義者もいるが、悲しいかな、主流派ではないということだ。

さて、フロイトは何らかの処方箋を示せたのであろうか?

フロイトは、文化の発展により強まった知性が欲動をコントロールし、攻撃本能を心の内に向けられるとした。
「文化の発展が生み出した心のあり方と、将来の戦争がもたらすとてつもない惨禍への不安、この二つのものが近い将来、戦争をなくす方向に人間を動かしていくと期待できるのではないでしょうか」
「文化の発展を促せば、戦争の終焉へ向けて歩み出すことができる」
と結んでいる。

フロイトの答えは、期待が大きかっただけに、いささか楽観的と言えなくもない。
アインシュタインの問いかけが現状を語り尽くした手紙への返信なので、答えに窮したのかもしれない。

現代人は、ともすれば難問に対する答えを安易に求める。たとえば回答を求めてすぐネットを検索する。仮に答えらしきものが書いてあっても、それは単なる知識のひとつでしかないのに、それを鵜呑みにしてしまいがちだ。

「ひとはなぜ戦争をするのか」という大問題も、天才2人が答えを出してくれるという期待から、私も含めてこの本を読んでしまう人が多いと思う。

この往復書簡のやり取りのあと、ナチスは本格的に台頭し、ユダヤ教徒のアインシュタインとフロイトの2人は、それぞれドイツを追われた。アインシュタインはアメリカへ、フロイトはイギリスへ亡命した。

この往復書簡の内容は1932年までの2人の思想の反映だ。その後、時は90年以上進み、精神分析も思想や哲学も変遷があった。

それにもかかわらず、戦争は今現在も続いている。人間の愚かさは全く変わっていない。何らかの理由で権力を持ち得た人間が多数を支配しようとする世の中の構造も全く変わっていない。

たまに革命が起きて今まで支配されていた多数の中から新たな権力を持つ人間が生まれて様変わりすることもあるが、その新たな権力者が新たに多数を抑圧し支配することは過去にあった話だ。

歴史を振り返ることでわかることがある。

資本主義は定向進化して権力者が人間を抑圧する帝国主義になってしまった。

抑圧の中から生まれた社会主義の理論は、当初資本主義のアンチテーゼで人間解放の理論のはずだった。

しかし理想とは裏腹に現実は世界の平和主義者を絶望させた。プラハの春を潰したソ連、その後そのソ連も内部崩壊した。

社会主義国も帝国主義だったという歴史の皮肉から平和主義者は何を学んだのであろうか。

もうあらゆる政治体制も宗教も思想哲学も戦争を確実に防止出来る理想的なものはこの世には無いことを認識させられたのではないか。

いま政治体制や宗教や思想哲学との向き合い方が問われている。

1932年にこの往復書簡があったにもかかわらず、(もちろんナチスドイツが精神分析関係の書物を発禁し往復書簡も忘れ去られた事情があるにせよ)戦争は防げず、第二次世界大戦が起きた。

日本は、アジア諸国を日本化という軍事力を伴った無謀な侵略を行った。挙げ句の果てに人種差別的とも言える原爆投下が広島長崎に行われた。アメリカによって無辜の人々が蹂躙された。
紛れもない歴史の事実だ。

戦争を文化が止めるというフロイトの考えは、差し迫った争いの場での特効薬にはならないかもしれない。
戦争を回避するために発展したはずの異なる文化が再びぶつかり合う可能性だってある。

このように戦争が収まる兆しは全く見えない。しかし人間が自ら滅亡しないために出来ることはまだある。フロイトの提案はまだ生きている。たとえ小さな営みでも文化を紡ぐことが、戦争を生活の手段に選ばない原動力になるのではないか?

優れた文化芸術に出会う。
まだまだ人間も捨てたもんじゃないなと思う。
同時に戦争をなくすことを諦めきれない想いが湧き上がるのを感じる。


詩人の新川和江さんが先日亡くなった。
こころを解放する優れた文化だ。
追悼を込めて代表作を紹介させていただく。
自由な風をほほに感じる。


わたしを束ねないで

わたしを束ねないで
あらせいとうの花のように
白い葱のように
束ねないでください わたしは稲穂
秋 大地が胸を焦がす
見渡すかぎりの金色の稲穂

わたしを止めないで
標本箱の昆虫のように
高原からきた絵葉書のように
止めないでください 
わたしは羽撃たき
こやみなく空のひろさをかいさぐっている
目には見えないつばさの音

わたしを注がないで
日常性に薄められた牛乳のように
ぬるい酒のように
注がないでください 
わたしは海
夜 とほうもなく満ちてくる
苦い潮 ふちのない水

わたしを名付けないで
娘という名 妻という名
重々しい母という名でしつらえた座に
坐りきりにさせないでください 
わたしは風
りんごの木と
泉のありかを知っている風

わたしを区切らないで
,コンマや.ピリオドいくつかの段落
そしておしまいに「さようなら」があったりする手紙のようには
こまめにけりをつけないでください 
わたしは終わりのない文章
川と同じに
はてしなく流れていく 
拡がっていく 一行の詩



もうひとつ、こころを解放する音楽。
ドゥダメル指揮 シモンボリバル・ユース・オーケストラ 少し前の日本公演におけるアンコール2曲。バーンスタインのウエストサイドストーリーからマンボ、ヒナステラのバレエ音楽エスタンシアからマランボ。
画像が悪いが、こんなにノリノリのクラシックコンサート見たことない!
オーケストラメンバーがステージ上で踊っちゃうなんて最高!
ああ!気持ちいい!


冒頭の写真は、第一次世界大戦におけるフランス・ヴェルダンの戦い20周年を記念して敵国だった国々が集い平和追悼式典に参加した様子。ドイツ代表団は鉤十字の旗を高く掲げて行進した。
ロバート・キャパ撮影 1936/7/12







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