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うたた寝


小田急線内、現実と夢を行き来する人が居る。ゆっくりと開いてゆく口には唾液の膜。それが完全に虹色になったとき、すべてを思い出したみたいに割れた。さっきまで、虹色に光っていたそれは、すぐにただの口になって、すぐに間抜けな寝顔になった。
快速急行は、はやすぎて、カラダの一部を落としてしまったような気分になる。電車に乗るたび、わたしは何かを落としていて、そのうち全てがなくなってしまうんじゃないかと思う。
心無いアナウンスが「新宿 新宿」って無機質に2回言う。

祖父が死んだ。喪服を纏って、外に出るとわたしはすぐに街の影になった。喪服の黒は、真夏の太陽の光をすべて吸収してゆく。このまますべての光を取り込んでしまえたら、そのときわたしは、静かな夜になれるだろうと思った。
「さいごのお別れ」をするために設けられた部屋は冷房がよく効いていて、それは祖父が死んでいるということ、死んだ人間は腐ってゆくことを、静かに教えている様だった。棺桶に添える花の柔らかさも、骨を箸で掴む冷たさも、ひとの悲しみの匂いも、たしかにわたしに触れているのに、ただそれだけだった。葬式中、わたしはずっと、その場にいないような感覚だった。目の前の遺体をみても、わたしの心は凪だった。カラダが、酷く軽かった。

葬式中、あの快速急行にわたしは乗ったままだった。あの快速急行で、落とした一部は心だった。
棺桶に収まった、ほとんど化石のような祖父の顔。顔の筋力がなくなって、口が開いたままだった。祖父のそれは、あの快速急行で、現実と夢を行き来するひとだった。祖父の唾液の膜は、とうに割れてしまっていた。それは、ただの口で、ただの間抜けな寝顔だった。

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