ヘルダーリン『判断と存在(Urteil und Sein)』私訳

原文
http://www.zeno.org/Literatur/M/H%C3%B6lderlin,+Friedrich/Theoretische+Schriften/Urteil+und+Sein

※「」は訳者が勝手に本文中に勝手につけている
※※[]は訳者が本文を勝手に補っている

※もし誤訳があればツイッター(@F1ydayChinat0wn)やコメントで指摘していただければ幸いです。
以下、本文


 判断(Urteil)は最も高貴で、また最も厳密な意味において根源的な分離である。その分離は知的直観のうちにおいて、最も親密に統一された客観と主観の分離である。この分離を通じてはじめて客観と主観とが可能になる。これが根源的(Ur)–分割(Teilung)である。分割の概念において、すでに客観と主観の相互関係の概念と、ある全体の必然的前提が存在する。その全体から客観と主観は部分として生じる。>>私は私である<<は理論的判断としての判断のこうした概念にとって最適な例である。というのも、実際の判断においては非我に対立するのであって、自己自身に対立するわけではないからである。
 現実性と可能性は区別される。それは媒介された意識と無媒介な意識が区別されるのと同様である。私が対象を可能なものとして考える時、私は先行する意識を繰り返しているに過ぎない。対象は実際には意識の力なのである。私達にとって、現実ではなかったような思考可能な可能性はありえないのである。それ故に可能性の概念はまた、決して理性の諸対象に対して通用することはない。なぜなら、理性の諸対象は理性の諸対象があるべきものとして意識の中に生じることはなく、むしろ必然性の概念としてのみ、意識の中に生じるからである。可能性の概念は悟性の諸対象に対して通用する。現実性の概念は知覚と直感の対象として通用する。
存在–それは主観と客観の結合が表現する。
 主観と客観それ自体は部分へと統合されるだけでなく、それ故にどんな分割も、何らかの切り離されるべき実在を傷つけることなしには、決して実行され得ない。このため、そうでなければ存在それ自体について語り得る余地はどこにもない。それは知的直観の場合も同様である。

しかし、この存在を同一性と取り違えてはならない。私が「私は私である」と言う時、主観(私)と客観(私)は統一されていない。つまり、存在の実在、つまり分離されるべきものを傷つけることなしには、一切の分離が行われることはない。反対に「私」(das Ich)は「私」からの[主観的及び客観的な]「私」の分離を通じてのみ可能なのである。どうすれば私は「私」!と自己意識なしに言うことができるだろうか?どのようにして、自己意識は可能となるのだろうか?私は、私を私自身と対立させることを通じて、つまり私自身から私を分離することを通じて、しかしこの分離にもかかわらず、私はこの対立のうちで自身を同一のものとして認識する。しかしどうして同一のものとして[認識するのだろうか]?私はそのように問えるし、またそう問わねばならない。というのも、別の視点からは「私」は自身に対立されるものだからだ。したがって同一性は主観と客観の統一ではない。もし仮に[主観と客観の]統一それ自体が行われることがあるなら、それゆえ絶対存在にとっては同一性は「=」ではないだろう。


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