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じゃがいもの皮を剥きながら。

   

 こんなに美味しくご飯が食べられるようになるなんて思っていなかった。

 ちょうど1年前、私は大きな不安と戦っていました。あとは卒業するだけのはずだったのに、病気かもしれないと分かりました。ひとりで抱えきれないほどの不安に押しつぶされそうで、生活がままならなくなっていました。
 それまでの起床時間より遅くに、ため息とともにベッドから出て。なんとか身支度をして、大学に行って。夜になると「長かった今日がようやく終わる。」と感じて、元気になる。そんな日々の繰り返しでした。家に帰るのを泣いて嫌がり、ひとりになるのを怖がり、「お守り」を持っていないと大学へ行けませんでした。今日を生きるのが精一杯で、明日のことなんて考えられませんでした。

 最も苦痛だったのは、食事の時間でした。私は気持ちが落ちると、食が細くなる傾向があります。これに気づいたのは大学生になってからで、実家にいた頃はご飯を作ってもらっていたから食べられていたのだと知りました。
 身体のために食べなければいけない。でも食べたいものがない。何を食べるか選べない。美味しくない。すぐにお腹がいっぱいになる。食事に関することすべてがしんどい。誰かと一緒なら食べられるけれど、ひとりでは食べられない。「どうしてご飯を食べないと生きていけないのだろう。」と考えてしまうほどでした。
 どちらかというと食べるのは好きなはずなのに。こんなに食べられなくなるなんて。時々一緒にご飯を食べてくれる友人のおかげで痩せることはありませんでしたが、完全にエネルギー不足になっていました。
 食事の時間は、修行をしているようでした。咀嚼と嚥下を繰り返すだけの数分間。味は分かるけれど、美味しいとは感じない。食べたいものがないから、口にするのはほとんど毎日同じもの。ご飯を食べるだけで、どっと疲れてしまうような日々でした。唯一の救いは、誰かと一緒なら食べられることでした。友人に付き合ってもらって外食したり、母におかずを送ってもらったり、実家に帰っている間にたくさん食べたりしてどうにか生きていました。

 そんな状態だったので、料理なんてできません。実際、「しんどいときに料理をするのは、かなりハードルが高いよ。」と言われていました。何を作るか考えて、買い物に行って、食材を選んで、調理をして、片付ける。一言で「料理をする」と言ってもたくさんの工程が含まれているので、ハードルが高いようです。
 料理ができなくなってからよく食べていたのは豆腐。3個セットで売っている小さめの豆腐です。それをレンジで温めて食べていました。食べるというより、生きるのに必要な作業をしている感覚です。一口分をすくって、口に運んで、咀嚼して、飲み込む。義務感だけで食事をしていました。

 告知を受けて、入院・手術をして、働き始めて。本当に少しずつエネルギーが溜まって色々なことができるようになりましたが、料理だけはなかなかできませんでした。調理に5分以上かかるものを作ろうと思えず、「豆腐をチンする」から半歩進んだくらいのご飯を食べていました。

 変化があったのは、今から1週間前。まったく想像していなかったことがきっかけでした。「昨日の夜ご飯はグラタンだった。」と同僚が話すのを聞いて、どうしても「今日はグラタンが食べたいな。」と思ったのです。車に乗っても、グラタンのことしか考えられません。思い浮かべていたのは、じゃがいものグラタン。中学生のとき調理実習でホワイトソースを作ったことを思い出しながら、スーパーへ向かいました。
 ひとりでいるにもかかわらず、ご飯のことでこんなに頭がいっぱいになったのはいつぶりでしょう。思い出せないくらい、久しぶりです。義務感ではなく心から「食べたい」と感じるものがあって、それを作りたくて買い物に行っている。料理をするのがあんなに億劫だったことを忘れそうになるくらい、わくわくしていました。

  あぁ、私は元気になったんだな。

 まだスーパーに着いてすらいないのに、胸がいっぱいでした。グラタンを作っている間も、嬉しくて、幸せで。こんなに工程が多い料理を作れていることが、大きな自信になりました。
 お腹が空くこと。
 ご飯が食べたいと思うこと。
 美味しいと感じられること。
「今、生きているんだ。」と感じ、そのありがたさを噛みしめていました。久しぶりに時間をかけて作ったご飯は、少し失敗したところがあったのにとても美味しかったです。

 本当に元気になるまで、1年以上かかりました。料理をできる日が、自分で作ったご飯を心から「美味しい」と感じられる日が戻ってくるとは想像していませんでした。踏ん張って、歯を食いしばって。時折誰かに照らしてもらいながら真っ暗闇の中を歩き続けていたら、いつの間にか白んだ空が目の前に広がっていました。

 去年の私を見ていた人が驚くような、私自身も想像していなかった未来。グラタンを作ったあの日のことは、ずっと忘れないでしょう。

   

   


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