学校部活を無くした方がいい理由。
私は公立中学高校でサッカーしてた。その経験からも中高部活を無くした方がいいという考えに至った。理由はいくつかある。
1. 学校とは資本主義、民主主義、法治国家社会で生き抜く為の知恵を習得する場、つまり真面目に労働していれば生活保護に頼らずとも健康で文化的な最低限度の暮らしを実現できるような賃金を得られるように鍛錬する場だから。部活動に打ち込んだ結果、社会人で苦しみ闇バイト、ギャンブル、犯罪行為に至る事例は枚挙にいとまがない。”資本主義、民主主義、法治国家社会で生き抜く為の” という部分が重要で、これを意識しない学校教育は日本の保守が忌み嫌う北朝鮮のような全体主義国家と変わらない教育システムとなるから注意すべきだ。
2. 目標達成の為ならばTPOをわきまえない振る舞いを平気で行えるから。例えば雨天時校内で練習をすることがあるが、実社会に出ればあり得ない振る舞いであろう。”廊下は走らない!”などの警句は無視され部活動特権の行使によって合法化されるのだ。廊下を走り回りドリブルすることが美化されるのだ。あり得ない。イオンモールでドリブルしていたら障がい児と思われても仕方ないのに、部活動では、そう思われないのである。このような学校という異常な空間を出て、社会に出れば一定期間実社会に溶け込む為のリハビリが必要になるのは言うまでもない。
3. カーストが嫌な形で可視化されるから。高校野球や高校サッカーでは、レギュラー、ベンチ、応援席組というカーストが発生して固定化される。このカーストが日常の学校生活にも持ち込まれてしまう可能性があるから部活を無くすべきだ。
4. 部活動で輝いて見えた青年の将来が散々であったときのギャップにもがき苦しむから。部活動という軸では一番だったけれど、資本主義、民主主義、法治国家の実社会に放り込まれたら、部活動マジックが溶けて、化けの皮が剥がれる瞬間がいずれ訪れるから。
5. 部活動をすれば更生されるというのは幻想に他ならないから。何を非行とするのかは不明であるが買春が非行であるというならば、公営の売春宿、ソープランドに行く奴は行くので部活動すれば更生されるというのは幻想だ。熱血スポコンドラマが流行ったが、日本国に住む以上、顧問、教え子共々、ソープランドで買春している疑いが晴れることはないのである。ソープランドに行ってないのに行ったでしょ、と疑われたら行った認定されてしまう世の中なのである。
6. 資本主義にも関わらず学校部活には金銭という概念がない、いや隠蔽されているから。サッカーをするには何十人と人を集める必要がある。実は人を集めるには金が必要であるが部活動の顧問や教え子には金が掛かっているという自覚がまるでない。マンモス高の二軍の高校球児は、顧問と一部の教え子に軽んじられ、金銭を上納することを強要される。親が奴隷である貧乏家庭の子息の球児はどこまで行っても、奴隷なのである。
7. 教え子には金の匂いを感じさせないようにしているが、強豪校の顧問はしっかり金儲けしていることが気に食わないから。高校球児は甲子園出場という金儲けに直結しない目標に向かって無給で3年間の青春を浪費する。一方、強豪校のデブでヤクザみたいな顧問はどうか。恐らく甲子園出場で成功報酬500万円とか、協定が結ばれているのだろう。しかも残業手当もしっかり出てる可能性すらある。休日に試合を組んだ見返りに金を受け取っている可能性すらある。強豪校と試合させて下さい!とお願いする高校もあるだろうから。甲子園出場しても全く金が入ってこない高校球児は、顧問の奴隷に他ならない。学校部活は合法的に無給の奴隷を酷使して権力者が金儲けできる無法地帯と化しているのである。
以上、こんなところだろうか。明治維新が起きた頃、我々労働者階級は地主の奴隷とされ、不当に高額な上納金を支払っていた。一君万民論を提唱した吉田松陰や不当に高額な上納金に反発した渋沢栄一が躍動した明治維新という革命は不完全なまま完結した。明治維新の祖が提唱した基本理念は忘れ去られ、現代日本では特権を利用して不当に金儲けしている層が確実に残存している。今回の学校部活でもそうだ。強豪校ビジネスで暴利を貪るデビルがレガシーメディアの夏、冬を彩るのである。