小さな1歩は大きな1歩
理屈をいう前に自分を感じる
やっぱり猫が好きです。(そんな名前のドラマがあったことを知る人は、うれしき同世代・・・昭和の終わり)
ということで、ニャンニャンニャンの2月22日は、私にとってそれだけで気分のよい日なんです。
この「理屈はないけど、好きなんだよね」という気持ちは、最近自分が意識しているところでもあります。
自分の気持ちを感じたり、味わったりするのは、よい気分からとりあげてみるということすら、よくやってるぞー、と自分を褒めたくなるほどに、自分をほったらかしにしていた私です。
誰だって、簡単に自分をほったらかすことができる
きっかけが何だったかを振り返ることは、今となってはあまり意味をなさないほど、私は自分をほったらかしにしてきました。
ほったらかし、というのは、例えば本当は湧き上がってきた感情があったのに、なかったことにする、悲しみや怒りなどをおさめたくて、とにかく色々もっともらしい理由を見つけることに意識を向けたり、というのが私のパターンでした。
自分が日頃、どんな感情が湧き上がっていて、どのように感じたか、そうしたことを長らく疎かにしてしまった結果、自分がどうしたいか、ということがすっかりわからなくなってしまった私は、スッキリした気分になることもほとんどなくて、なんとなく気分の晴れない日々を当たり前のように過ごしていました。
これはね、、、本当に心がしおれます。心が萎れるので、日々の生活もしおれていきます。こうなると、いろんなことを諦めがちになったり、無気力になっていったり、苦しい時間が増えていきます。もがいているつもりなんだけれど、気づけば「もう、がんばれない〜」ってひとりごと言ってたりする。
それでも自分は望んでいる
そんな最中、気づけば、心のことを色々と学びはじめていました。きっと心のどこかでは、自分を諦めたくない気持ちがあったし、なんとかしたいという一心だったとは思います。
自分を諦めながらも、自分を諦めたくない、だなんてほんと矛盾しているけれど、諦めるちゃうことって、実は日常の中にすごくたくさんあるんです。無意識に諦めちゃっている。
その一方で、本当は望んでいることがあって、諦めたくない。という想いもある。
この両方をひたすらに味わった私が、今思うことは、「諦めなくていい」ということ。いや諦めなくていい、じゃなくて「諦めたくない」ということ。
だって、自分には望みがあるんだもん。
そして、望みに気がつくと、人は自然と動き出すようだ、望みに気がつくには、自分に対する赦しや許可があるんだ、ということ、この学びと体験がとてもとても豊かなものなので、少しずつ記していきます。