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ゲームが苦手すぎた子どもが大人になってピク◯ンをやって気づいたこと

最近、昔のことを思い出す。

Xで昔持ってたぬいぐるみの画像が流れてきたり、義弟の相談に乗るために、大学受験どうやって勉強したっけ?、高校の時購買のパンを走って買いに行ったなとか。

そんな中、無性にピク◯ンがやりたくなったので、友達に借りてやってみてる。

でも、ほぼチュートリアルだろくらいのところで躓いた。
貸してくれた友達に聞いても、スムーズに出来すぎて説明できないくらいのところで、ググってもやり方が出てこない。

なんで自分だけこんなところで躓くのか、誰もそこで躓かないので、対処法を教えてくれる人もいない。でも、自分でどうにも出来ない。

できるかできないか、問われるところのすんごい手前。

もっと分かりやすく、なわとびで例えよう。

二重跳びができるかできないか、これは想定の範囲内。

私が言ってるのは、「縄跳びがどこにも売ってない」「私のみてる世界にはどこにもない」ぐらいのことだ。
誰もが、「そんなわけない!」「努力が足りない!」と言う。
でも、探しても探しても、ないのだ。

自分だけなわとびのない世界にいる恐怖。

ねぇ、怖くない?
信じられないかもしれないけどさ、
もし本当にそうだとしたら、めっちゃ怖くない???

私は子どもの頃からゲームが苦手で、全然うまくできなかった。

操作もなかなか覚えられないし、雰囲気で次どうしたらいいかわかる、みたいなのが欠落していたからだと思う。

ルールがうまく把握できないので、自分だけみんなとゲームのレベルが違って、悲しかったのを覚えている。どう楽しんでるのかみんなが言ってることがすごいピンとこなかった。

周りがみんなサイボーグみたいな、プリセットで他の人みんなに備わっている機能が私にだけないような恐怖だった。

みんなが思っていることが私には分からず、
私が困っていることは理解されない。

逆に、「なんでこんなことも分からないの?」って思うことも多々。

ゲームだけじゃない。日常的にそうだった気がする。

みんなが普通つまずかないところで、尽く躓き、それを伝えてもわかるように説明してはくれない、というかそれこそ私が持っていない感覚でみんなには言語化できなかったんだろう。

こうなったらこういう反応が返ってくるだろう、みたいな想定がコミュニケーションには必要だけど、そういう想定が桁違いに違うっていう孤独感。
ねじれの位置から飛んでくる的な。

私が何か言うと、そういうびっくりした、軽蔑にも似た反応が飛んでくるもんだから、怖くて仕方ない。
話の通じない生き物ばかり。

それはそれは孤独で、恐ろしい世界。

もちろん、みんなが分かるはずのことが分からない自分にも強い罪悪感を覚える。

自分が自分であることへの罪悪感。
それはまだ今もあるかもしれない。 

大袈裟と言われるかもしれないが、
それが小さい頃見ていた世界と自分だった。

そんな世界の中で唯一と言っていいほど、想定した反応が返ってくるのは、体調不良→ケアしてくれる、ってことだったのかもしれない。

私にとって唯一安全に取れるコミュニケーションだった気がする。

軽蔑されない、でも、私に対する反応という会話は成立する。ちょっとだけ安心感のある世界。

身体のしんどさなんて、あの恐怖からしたらどうでも良かったんだな。

そうやって、私は自分らしさから健康を締め出し、自分から体調不良に向かっていくようになったんだろうな。

あの頃の恐怖も罪悪感も味わって、
抱きしめて、リリースしよう。

ちなみに、今やってるピク◯ンは何度も友人に聞き、自力で調べ、なんとか迷子から抜け出した。

忍耐強くやってけば全然大丈夫なんだね。

もちろん、出来るようになるのは他の子よりもとても時間がかかるようなマイペースでゆっくりで不器用なのは確か。

そこを自分で否定しないで、受け入れて、チャームポイントだよねって、開き直って行こうと思う。

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