葵咲本紀(※ネタバレあり)
残念ながら公演中に現地では見られませんでしたが、ライブ配信で視聴。
配信の日は別の舞台に行っていて、高速バスの移動中に見ていたので、台詞が聴こえていないところやトンネルによって映像ストップしてしまったところがありました。
たぶんお話として影響が少ないところで止まってくれたかなとは思います。
刀剣乱舞の舞台化映画化は何がすごいって考えさせられることがたくさんあること。1回じゃ情報が処理しきれないというか、お話としての大筋はわかるのに、すべてを把握できない。
歴史に対する知識がないということもあるけれど、過去に飛ぶことからくる時間軸の複雑さと、刀剣という物が刀剣男士となって心の扱いに戸惑うという精神的な面での複雑さ。しかも、出陣する刀剣男士は6振りいるので、そもそも目が足りないわけです。(たぶん何回見ても推しに目を奪われるし)
そんな感じで見れてないところも多いと思いますが、個人的にぱっと見て思いついたことや、なんでだろうと疑問を持ったところだけ自分なりに書いていきます。年号や刀については軽く調べた程度の知識なので、誤りがあれば申し訳ありません。
まずは逃れられないこちらから。
葵咲本紀と三百年の子守唄は同じ時間軸の話なのか?
違う時間軸説もありますが、私は同じ時間軸の話だと思っています。
理由としては、
・村正が家康のことを嫌いといい、検非違使に怒りをぶつけている
・話の中で起こっている事象からいってリンクが多い
・家康の周りの武将に成り代わるというのは歴史を守るためのかなり大胆な手ですが、それを繰り返しているとしたら歴史遡行軍に対してかなり劣勢な状況なのに、審神者に焦りが見えない
このあたりから、同じ時間軸のお話で、三百年の子守唄の間を埋める物語で、葵咲本紀があって初めて三百年の子守唄は完成するんじゃないかと思います。
今回の編成について
先に村正と蜻蛉切が出陣して残っているので、本丸から出陣するのは鶴丸、明石、篭手切江、御手杵の4振り。彼らの顕現順ですが、鶴丸→御手杵→篭手切江→明石かと想像しました。
鶴丸は審神者から三日月のことを聞かされているし、古参であることは明らかにされていますから、うまく状況を収束させられると信頼して隊長を任せられたでしょう。鶴丸の台詞からすると、過去にもそういうことを頼まれている様子。
御手杵は今回狙われる結城秀康の槍だから。篭手切江は先輩(おそらく稲葉郷)がいるから。
さて、なんで明石が出たのか、明石が何を考えているのか。1回見ただけではまったくわかりませんでした。刀剣についての知識がない上に、ゲームをしていてもあまり刀剣男士の関係性を気にしないので、意図が読めないと感じていました。
ミュージカル刀剣乱舞では、心に翻弄される姿が多く見られます。それを合わせて考えたとき、もしかして審神者は彼の考え方を変えるために親心のような気持ちで出陣させたのかもしれないと思いました。
明石を調べてみると、刀としてあまり使われずにいたという情報があります。つまり、使われずにいた明石にとっては、刀も人もみな救えない対象だった。全部救えないなら何も救えていないのと同じ。顕現したてでは、そう思っていないと彼自身が心に耐えられないんじゃないかと。
ただ、それは悲しい考え方です。刀剣男士として肉体を得た彼には、救えるものがあるのに。
松平家伝来の刀である明石に、平和な世を目指す徳川の祖の姿を見せることで、彼の考え方を変えてあげたかったんじゃないでしょうか。
三日月宗近という機能とは
機能については本当にわからないんですが、三日月の介入によって歴史上の人物たちの力であるべき歴史を引き戻すことなのか、と思っています。
刀剣男士の存在を明かして、歴史の道筋を明かすという歴史改変を行いながら、歴史上の人物たちの動きによって道筋を戻すという、結果として最も影響が少ない方法を取るのが三日月宗近なのかと。信康の「友と呼んだ」という台詞からも、この時代へ繰り返し出陣していることがわかります。
映画刀剣乱舞にて、三日月宗近が豊臣秀吉に下げ渡されたという話が出てきます。このきっかけになる戦いは1582年。そして、結城秀康が秀吉の養子になったのは1584年。さらに、結城家の養子になったのは1590年。
三日月は結城秀康のことを知っていてもおかしくないような気がしますし、後に徳川秀忠の手にも渡って以来徳川将軍家に在ったようなので、徳川家にも縁があるようです。
そして、服部半蔵は1596年没。
そうなると気になるのが、三日月宗近はなぜ最後まで任務を果たしていないのか、という点です。
ここから少し脱線して、2部の鶴丸ソロ曲を聴いてこうだったら滾るなという想像に入ります。次の見出しで本編に戻りますので飛ばす場合はそちらを目印にどうぞ。
私は、この曲に歌われている友が、三日月宗近なのではないかと考えてみました。「約束」を交わした、すでにいない三日月の影響を時間軸の中で感じているような気がしたんです。
『機能』ってかなり無機物的な言い方だと思います。
「この世界」と言ったとしても、同じ時間軸に顕現した刀剣男士とは限らない。三日月が出陣したのと、4振りが出陣したのは同時期とは限らない。
なぜなら、彼らが遡る時代には制限がないから。
鶴丸と同じ本丸にもいた三日月がどこかで折れても、介入の影響が遡行した歴史の中に残っている。過去の三日月の途方もない数の出陣の跡が、今出陣している鶴丸たちの助けとなる。
あるいは未来で新たに顕現した三日月の、刀ミュの世界でも別の本丸という考え方があるのであれば、別の本丸に顕現した三日月の痕跡があるのかもしれません。
それが、遡行した歴史の中で邂逅している。
「俺を驚かせるのはいつも君だ」って、いなくなってなお、とも取れるんですよね。現実的な事情でしょうが、歌合で鶴丸と三日月は揃わないんだなと思ってしまいました。
千子村正の心
明石国行の考え方もそうですが、葵咲本紀で最も大きく変わったのは、村正の在り方ではないでしょうか。
三百年の子守唄の時、彼は顕現したて=今回の明石と同じ心を持て余した状態でした。その時の彼にあるのは、「徳川に仇なす妖刀」というアイデンティティです。子育てにもあまり参加する様子が見られず、遠くから見守っていました。
その彼が、信康のことで家康や検非違使に負の感情を抱いた。信康のことを大切に思っていなければ、起こらないことです。
検非違使に向かう時、村正は石切丸と同じ力を使っています。この危険な力とは何なのか。
これは、怒りや憎しみからくる力。そして、この力を制御し自分のものとして制御するのに必要なのはおそらく、誰かを慈しむ心です。誰かのために刀を振るう心。
三百年の子守唄と付けたのは、平和を愛する石切丸。
葵咲本紀と付けたのは、徳川を愛する(ようになった)村正。
顕現したばかりで妖刀としてのアイデンティティしかなかった村正が、葵の笑う事跡と名付けた。
刀ミュの家康にとって笑うことには大きな意味があります。信康への気持ちが目立つけれど、初めて育てたのは家康。
葵咲本紀の過程があったから、彼は三百年の子守唄の瑠璃色の空で「後に千代籠む 君の名は竹帛に垂る」と歌えたのでしょう。