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制度を超える「想い」について(雑感)

制度が硬直化しているときは「想い」で乗り切るんだよ、という話をしたい。

ただ、これ、言う人、やる人で全然レベル感が違う。

「校則は堅苦しい」 ⇒ 「全部ナンセンス! 俺は縛られないぜ」 

というと、みんな無謀だと思ってしまいがちだけれど・・・


「校則は古くさい規制が多い」 ⇒ 「一部ナンセンス! 新しいルールを俺たちでつくろうぜ!」と言うと、

同じ点を同じように主張しているだけでも、急に無謀さが消えていく。


だから「これをさせてほしい」という点は変わらないのに:

ある人は「ルールの範囲内」と言い、

ある人は「ルールに無い」と言い、

ある人は「ルールがおかしい!」と騒ぎ出す。


経験的に、いきなり「ルールがおかしい!」と騒ぎ出す人は多いのだけれど、他方で、

専門家のように「ルールの範囲内にある」と解釈・説明しがちな人の話には「暗黙のお約束事」も多く、知識のひけらかしのように見られて、かえって話がギクシャクすることも多い。


結論から先に言うと、この間を埋めるのが「想い」。なのだけれど、この「想い」って「ルールがおかしい!」と騒ぐ「不勉強」と何が違うの?? というのが良く分からない。


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違いの説明の仕方から考える。


≪説明(案)その1≫

「想い」はセレンディピティ、「不勉強の騒ぎ」は「イントゥイション」。


 セレンディピティとは、言ってみれば、熟練の職人のもつ「勘」。改善提案に展開しやすく、過去の事例との整合性も明確で、多くの人の納得が得やすい。

 イントゥィションは、動物的な「勘」、つまり「思い付き」。正しいかどうかすら分からない。その人に一定の政治力があれば、その組織や人脈の範囲内ではゴリ押しできるというレベル。本人の意思に反して、長く残るとは限らない。


≪説明(案)その2≫

専門用語(ジャーゴン)を新しく作ってしまう。


例えば、法学の世界では「リーガルマインド」という概念がある。戦前、ドイツからの法律体系が優勢だった時には、牧野英一先生(東大名誉教授、一橋名誉講師)の新派刑法学など、一部の分野でのみ展開されていたもの。牧野先生は尊敬されていたが、全体的にはキワモノ扱いされていた。戦後は、アメリカの法律学が伝統的な法学に接ぎ木され、むしろ、東大の末弘厳太郎教授~川島武宜教授などを中心に日本に紹介・導入されるに至った(ということになった)。今も法律雑誌では頻繁に使われる言葉の一つだ。

司法試験で、そんなリーガルマインドが問われた問題がある。
昭和58年第2問。作者は、米倉明教授(東大、当時)と言われている。

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【問題】

 A会社の工場が爆発し、附近を通行中のBが重傷を負い、通行人CがタクシーでBを医師Dのもとに運んだ。Bは、治療のかいもなく、間もなく死亡し、あとに、長期間別居中の妻E、内縁の妻F及びB・F間の子でBにより認知された幼児Gが残された。

 右の事実関係の下において、次の問いに答えよ。

1 Cがタクシー料金及び汚れた衣服のクリーニング料金を支出した場合におけるその費用並びにDの治療代に関し、C及びDは、だれに対してどのような請求をすることができるか。

2 E、F及びGは、A会社に対してどのような請求をすることができるか。

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この時、司法試験委員だった遠藤浩・学習院大学名誉教授(故人)に直接聞いたことがある。

圧倒的に多かった間違いは、「医者Dは、Cに頼まれてBを治療している。そのため、死亡したBの治療費は、(病院で治療を託した)Cに請求できる」というものだったと。一人だけ「DはCに治療費を請求できるということになる。」の後に「人を助けると治療費を見なくてはならないとしたら、人々がお互いが助け合う世の中は出来ない。僕は、この見解は、人として許せない。」ということを書いた答案があり、その人には部分点を上げたらしい。けれども、無邪気に「請求できる」という人があまりに多くて驚いたという。

このような場合、目の前の見た目の事象だけを見て「CがDにBの治療を頼んだ」というのではなく「C・Dそれぞれが、人道的な立場から連携してBを助けようとした」と見るべきではないか?と“気づく”ことが大事。

なぜ気付けるか? そこには、世の中を(みんなのために)(自分のためにではなく)より良くしたいという熱意・想いがあるから。法学では、本来の意味で、これを「リーガルマインド」という。想い(リーガルマインド)があれば、ルールが出来た趣旨・背景に気づくことが出来、適切な解釈が出来るようになる、というのは、こういった時に試されている。

※    なお、上記の過去問についていえば、 “啓蒙”活動もあり、いまはもう 予備校の過去問向け模範答案も「直った」。しかし、実務においては、100年前に「法学は天才に見捨てられた学問である」(法律学がバカでもできる)と揶揄された “当てはめ屋”の域を、今もなお脱しない専門家も多いように思う。


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理論上の違いが何とか言えたとして、実際上は、どう見抜くのだろう?

実際上は、不勉強でも声が大きい人が。心からの想いを籠めて考えをまとめようとする人よりも力があり、話をゆがめてしまうことが多い。

考え方の1つは、資格や試験。一定の試験をクリアした人のみが「その職業につける」「その件で発言権がある」とする。

しかし、例えば政治家であれば一定の法律や経済学の試験に、経営者(企業の役職者)であれば経済と労務管理の試験に合格していることを条件とする、とか。それって現実的なのかと言われると難しい。

その代替が2つ目の手段である「認定」。しかし、これもだれが認定するかによっては、機能しなくなる恐れがある。

3つ目は、陶片追放(オストラキスモス)。古代アテナイで、僭主の出現を防ぐために、市民が僭主になる恐れのある人物を投票により国外追放にした制度。実際には、有能な人物を国外追放にしてしまったり、政敵を潰すために言いがかりで投票を募ったりといったことも相次ぎ、10件ほどしか実施されなかったらしい。

あまりにひどい人を弾劾・懲戒し資格を剥奪するというのは、強制力の一つとしては「あり」。

発言する人がある程度の品質に保たれることにより、言説の内容・質が維持されると期待できるのではないか。

だが、これも、参加メンバーの数が一定数を下回り、または上回るのであれば、実質的に機能しなくなる。

4つ目の考え方は、信頼のブロックチェーン。信頼できる人が、自分のスタンスを明確化した上で、信頼できる理由も開示して、その人を信頼する、とするもの。

これが一番信頼感で繋がれる。とはいえ、これも一定以上の規模にすることは難しい。一定以上規模の人間集団同士の政治的争いに陥る可能性がある。

総花的ではあるが、個人的には、上記の4つの手法を上手く組み合わせるしかないように思う。

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見抜いたら、次はどうすればいいか?

見抜いた内容に従って、段取りを組み、想いの力を弱めずに伝えきる戦略を練るべきだろう。

そのためにも、忍耐強くなくてはならない。

チャンスはいつ転がってくるか、誰にも分からないのだから。


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