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母性


https://movie-architecture.com/boseiより


先日、『母性』を観ました。
【毒親】というコトバが聞かれるようになった昨今。
(毒親・・・子どもを支配したり、傷つけたりして、子どもにとって「毒」になる親のこと、とのこと)
公開当時、テレビから流れる予告編をみただけのわたしは、かんたんに、【毒親】のお話しなのかなぁ、、、と思っていました。


あらすじ

女子高生が自宅の庭で首を吊る事件が起きた。発見したのは少女の母で、事故なのか自殺なのか真相は不明なまま。物語は、悲劇に至るまでの過去を母と娘のそれぞれの視点から振り返っていくが、同じ時間・同じ出来事を回想しているはずなのに、その内容は次第に食い違っていく。


原作は、湊かなえさんの同名小説。
(『告白』は原作を読んだし、映画も観た。『告白』は、読み終わった後に「もうちょっとの読み応えがほしかったなぁ〜」と思った記憶が。)
予告編のインパクト、そして、わたし自身がひとり娘を育てていることもあって、興味を持って観てみました。


感想。

俳優さんたちが素晴らしい。
戸田恵梨香の演技がすごい。
永野芽郁の涙はもらっちゃう。
高畑淳子は圧巻。
大地真央はきれいすぎる。
中村ゆりは嫌な役をやってもかわいい。(すき。)


映像作品なので、景色や背景の描写の美しさもありますが、
俳優さんたちの演技のすばらしさが印象深い作品でした。
また、
これを観たあとに、読んだ原作の湊かなえさんのインタビュー記事の「母性」に対する問いはずっしりと重く。

女性には「母」と「娘」の二種類いるのではないか。母になることができる女性と、娘であり続けたいと願う女性。いいかえれば、「母性」を自然に持っているような女性と、どうやっても手に入れられない女性。

 結婚して子供ができたら誰にでも自然に「母性」が芽生える、もっと強く言ってしまえば、女性であれば誰でも「母性」を持っている、と一般的に考えられているように思います。

 果たしてそうでしょうか。

 女性であれば誰でも「母」になれるのでしょうか。そもそも、形もなく目にも見えない「母性」は、本当に存在しているのでしょうか。

https://ebook.shinchosha.co.jp/nami/201211_01/


わたしはわたしの母がだいすきで、ムスメにとって、わたしの母のような母親になりたいと常々思っているけれど、なかなかそれはうまくいっていない状況です。

が、わたしがムスメにとって「母」であることは絶対に変わりない。
彼女が、「ママみたいなお母さんになりたい」と思ってくれるかはわからない(きっと思わなさそうだけど)。
けれど、ムスメが1歳半の時に離婚をしてシングルマザーになり、ムスメが小学生になるまでは実家の家族がいっしょに手をかけ目をかけてくれ、小学生になるタイミングで上京してふたり暮らしをはじめ、中学生になるまでの5年間は絵に描いたようなブラック企業に勤め、わたしが40歳のときに転職し、「ママ、おうちで笑うようになったね」とムスメに言われた時、わたしは取り返しのつかないことをしてしまったと涙が溢れたし、これを書いている今も泣きそうになるんですけど、自分自身や生活自体に余裕がなさすぎて、ムスメには八つ当たりをすることがあったし、いつも眉間にシワがよってたんじゃないかと思うし、たしかに、家で笑うことが少なかったと思う。
「ママ、おうちで笑うようになったね」とうれしそうなムスメの顔は、今も、わたしのこころをぎゅっとさせます。

今は、我ながらよいハハコ関係を築けています。

そして、湊かなえさんの問いに答えるとするならば、わたしの「母性」は母になって芽生えたものではなく、ムスメによって育まれているもの、だと、わたしは感じています。


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