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シガール

皿洗いをしよう、ということは私にとって筋トレをしよう、と同じである。家の水まわりが私の背丈に合わず、腰を曲げずに洗おうとすると空気椅子のような姿勢になる。私は苦しむことが好きだ(そうでなかったらこんな会社にいない)。片づけることはなんの屈折もなく好きなので、つまり皿洗いはかなり好きな家事だった。

大きな鍋をスポンジで拭きあげながら、Apple Musicの「ディスカバリー・ステーション」を聞く。ここ数年同じ曲ばかり聴いていた私は、この世にまだ自分が好きな音楽がたくさんあることに驚き、その都度その曲が入ったアルバムをダウンロードし、少し疲れた。

好きだったのは、工藤将也の『森の向う側』というアルバムだった。

たまには目を逸らして生きていこう
足りないくらいに今日もいい日だ いい日だ いい日だ

なんか、会社を辞めたい。会社を辞めたい、と思える曲は良い曲だ。

味噌汁椀を洗い、鍋の蓋に手を掛けようとしていたら、モーモールルギャバンの『スシェンコ・トロブリスキー』が流れた。これはあまり好きではなかった。

あまり好きではないなと思うと、耳を2回叩いてスキップする。この瞬間のほうが落ち着くのはなぜだろう。


ヨックモックをもらうことと別れは私にとって同じである。出勤すると、私と同じタイミングで入社した人が辞めていた。

社内で引き継ぎを進めるため、だいたい退職の1か月前には通達がある。しかし今回はなんか気づいたら「辞めていた」。

その人から退職の挨拶とともにヨックモックを渡されることもなく、黙ってシガールを2本くすねることもなかった。


何事とも、そういう風に別れるべきなのかもしれない。ほんの少し目を瞑ったあいだに、人も風景もすぐなくなる。だから目を開けている。それでも瞑る。そして人も風景も過ぎていく。過ぎていく月が私にシガールを渡してくれることなんか本来ないのだ。


「お世話になりました」
「今までありがとう」
「楽しかったね」
「この店、よく来たね」
「大好きだったよ」
「まだやり直せるかな」
「ごめんね」


言いたいこと、聞きたかったことは気持ち悪いけどずっと浮いている。皿が洗いたい。





まあまあ境遇が近い相手が辞めたので、退職について親に軽く話す程度には検討した。


とはいえ、次に誰が辞めたら私も辞めるかな…と考えたが、誰であっても退職を決断する程度には好きなんだろうなと思うと誰のことも考えたくない。どうせ、シガールくれないし。



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