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「派手すぎる」宗教施設と信仰

文:Rin Tsuchiya

こんにちは。Rinです。今回私はYK2さんの記事「赤い!黄色い!派手すぎる!」(https://note.mu/_bunka/n/n25b11f888c42)についてコメントしてみたいと思います。

中国で、仏像が金色に輝き、寺が七色にライトアップされているとのこと。確かに中国は何かとカラフルなイメージがありますし、その固定観念に反しない、「いかにも」中国という感じが伝わりますね。おそらく日本でこれをやったら、各方面から批判や意見を畳み込まれるでしょう、という考えを抱く方もいるかもしれません。

しかし、日本の仏教だって負けてません。宗教は今やものすごい発展を遂げています。
例えば最近話題になったのは「マインダー」というアンドロイド観音*。

京都の高台寺というお寺で公開されて話題になったマインダーですが、以外にもその読経には定評があるようです。話題性を求めてなのか、技術協力を申し出られたのか、開発された理由は定かではありませんが、今や般若心経を読み上げるのに必要なのは修行を積んだお坊さんやその功徳だけではなく、テクノロジーにまでその範疇が広がってきています。ちなみにマインダーの読経を拝聴しに行くことを「ご開帳」というそうです。本来は秘仏などに使われるコトバも、アンドロイド観音に使われています。コトバの用法が、今、目の前で変わって行っている瞬間を目の当たりにしたような感覚に襲われます。
極彩色のライトとはまた違った、「これでいいのか」感の溢れる事例です。

さて、YK2さんが先の記事で、ライトアップされたお寺の写真に続けて「なんでこんな光景になるんだ」とおっしゃっていました。これに対して私なりの考えを述べていきたいと思います。

その理由は以外にも近くに見つかるのではないでしょうか。
というのも、日本の「祭り」だって、縁日だって、元々は神社におはします神様を「祀る」、つまり尊敬の念を払う、ひいては信仰することに由来があります。日本で最大規模の「祇園祭」も、天然痘を司る神を祀ることでその力を逆手にとって疫病を抑えるという目的のもと行われてきました。

場所が違い、社会的規範も違うのでこの場で受け入れろと言われても難しいでしょうが、金ピカの仏様でも、レインボーな寺でも、それが認められている以上はその場所の人々に容認されているし、それがその人々の流儀に則った「祀る」ことなのでしょう。
文化人類学の研究でも、お祭りのために莫大な借金を抱えてとにかくド派手に祭り立て(騒ぎ立て)る、というような事例は交換論や経済人類学などの分野でよく目にします。

もっと身近な、日本の寺社のことを考えてみましょう。お社の修繕をしたり本堂の屋根瓦を葺き替えると、神仏が喜んでいると口々に言われる様子が想像できるのではないでしょうか。一部の浄土真宗のご家庭でも、金ピカの仏壇**を当代で一度は新調するのが慣習
になっている地域もあります。
そんな感覚の延長として、新しいもの・テクノロジーを取り入れることが信仰の一側面を象徴しているのではないのでしょうか。世界に目を向けてみれば、信仰の象徴の仕方が、地味でなければならないということはない。



*http://www.kodaiji.com/mindar/
**ご存知の方も多いとは思いますが、浄土真宗の仏壇は基本的には金ピカです。私が初めてその仏壇を見たとき、目がチカチカして気押されてしまいました。参考までに浄土真宗の仏壇を説明してくれたサイトがこちら(https://www.hamaya.co.jp/butsudan/about.html)

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