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父が亡くなり1年たって今思うこと_2つの大きな決断を振り返る

2022年10月23日 父は85歳で生涯を閉じました。
父がいなくなった実感も沸かぬままあっという間に1周忌を迎え、1年前のコロナ禍で起きた事、初めての介護経験、2つの大きな決断を振り返り、一生忘れてはいけない思いを書き留めておきたいと思います。


1.2022年7月 家族が次々にコロナに感染

 コロナ第7波が押し寄せた夏、特に若者の感染が拡大していました。
一人暮らしの大学生の息子から感染の連絡があり、自宅療養の家に行くこともできず、夫が食料を玄関先に届け、回復するのを待ち、携帯電話で毎日病状を確認している日々でした。
 
その後、娘が39度の発熱。最寄りの病院すべてにTELしたけれど、どこも発熱外来は満員で受け付けてもらえず、やむなくPCR検査会場まで行ってみたものの、受付終了でどこにも診てもらえず、途方にくれる日が続きました。
やっとの思いで病院の予約がとれ、車中でPCR検査し(もちろん陽性)、うがい薬と解熱剤を処方され(そんな薬しかない)ようやく自宅療養。
夫は会社の近くのホテルに避難していましたが、発熱。
 
その2日後、私も発熱し発熱外来にて陽性(ずっと娘と車中一緒にいたからそりゃ感染するわ)
39度の熱があっても、マスクをして80代の両親の食事の支度、家事をしていました。
その後、85歳の父が発熱。奇跡的に84歳の母は未だに感染せず。
 
父は、前年肺がんの放射線治療を30日間連続で行っている基礎疾患保持者で、高熱をだすということはかなり危険な状態。市から届いたパルスオキシメーターで酸素濃度を都度測り、毎日保健所に報告をしていました(特に高齢者の発熱だと保健所も気を遣ってくれる)
高熱が続き、酸素濃度が88%になったと連絡をした時点でようやく緊急入院の手続きをし、すぐに救急車の手配をしてくれました(90%以下は十分な酸素を臓器に送れなくなった呼吸不全の状態)
防護服の救急隊員が体重80KGを超える父を運び出す際、意識があった父は「退院したら皆で焼肉食べに行こうね」と言い残し、握手をして別れました。
救急車で1時間かかる救急病院に搬送され、3週間の入院隔離生活が始まりました。

2.2022年8月 父の退院時にした決断①

 ようやく状態も安定し、退院日が決まりました。
事前に在宅訪問医師、訪問看護ステーションの看護師、ケアマネ、家族、姉妹が集まり、入院先の医師とも連携し、今後の医療体制についてどうするか話し合いの場を持ちました。
 
父は体力が消耗し、歩くにはリハビリが必要である。
つまり寝たきりの状態でコロナ感染後の病院の受け入れ先がない。
施設ですぐ受け入れ対応できるところがない。
自宅で看護できるのか。
同居している私が、父の介護ができるのか。(認知症の母もいる)
在宅勤務を増やしてもらっているけれど、仕事はどうしようか。
父のおむつとか替えられるのか、嫌そんなことできない・・・
 
いろんな不安はあったけれど、皆で話し合い、協力して万全の体制で在宅看護しましょう。
家で家族の気配を感じられる場所にいましょう(病院はコロナで面会もできない)。
医師・看護師の全面協力体制を受け、家に父を迎える覚悟を決めました。
 
介護タクシーで病院まで父を迎えに行ったとき、父は涙を流していました。
よっぽど隔離生活が寂しかったんでしょう。
皆がいる家に帰れることが嬉しかったんでしょう。
 
家に帰った父は、介護ベットから動くことはできなかったけれど、意識ははっきりしていて、食欲も旺盛。
酸素吸入、点滴をしながら、大好きな納豆ご飯を毎日食べ、8月30日の85歳の誕生日は、家族皆が父のベットを囲みお祝いしました。
その時はまだバースデーケーキのロウソクをなんとか吹き消すことができました。
 
要介護5の認定を受けた父は、毎日訪看護師さんに来てもらい、丁寧に体を拭いてもらい、点滴を替え、ひげを剃り、洗髪をし、、、必要な処置をしてもらいました。
その手際の良さと明るく笑顔でプロフェッショナルな対応を間近で見て、おむつ替えが出来ないなんて言っていられないと、私自信も勇気づけられました。

3.2022年9月 延命措置をするのか決断②

 退院当初は食欲旺盛で、リハビリの先生にも来てもらい起き上がったり、歩行が出来るよう訓練をしていました。日に日に食が細くなり、飲み込む力が弱まり、水分を取ることさえも困難になってきました。
点滴で水分補給をしていましたが、食べる量が減ってくると、肉付きの良かった父は、筋肉が落ち、みるみる細くなっていきました。
徐々に自分で食べる力ことも出来なくなり、ゼリー状やすりつぶしたものをスプーンにいれて食べさせることが増えてきました。
 
医師から鼻からチューブで栄養を補給する方法もあると言われました。
ただし、これは延命措置になるが、どうするかと。
それをしないと延命を妨げることになるのか、、、そんなこと決められない。
こんな状態で本人にも聞けないし、、、どうしよう、、、
 
翌日看護師さんに相談してみました。
口から食べられるのであれば、それが一番。味わえることが一番の喜びだよね。
そうですよね。それが一番。自然な形で行きましょう。
 
スプーンで数滴でもいいから口から流し込んであげる。
最後まで味わってもらおうと決意したのです
 

4.2022年10月 最期は家族皆で見送る

 人間水分が取れなくなるとどんどん衰弱していくんですね。
肌は乾燥し、だんだん骨と皮の状態になってきました。
目をつぶって眠っている時間が長くなってきました。
なんだかうなされているように、苦しそうに声をだすときもありました。
看護師さんは、「無意識に声がでているんだよ」と言っていました。
亡くなる前日は特に大きな声を出している事がありました。
 
それでも看護師さんはいつも通り、暖かいタオルで全身を拭いて、ひげを剃り、清潔にしてくれました。
10月23日 日曜日の朝、皆が家にいる時間に、父は静かに息を引き取りました。
 
介護している期間は2か月間だったけれど、ずっとそばにいることができました。
いつも通りの生活をしている横で、父は静かに寝ていました。
家族の話し声・生活音・におい・・・気配を近くで感じ、とても穏やかな表情をしていました。
 
私が働いている間、ずっと孫たちの世話をしてくれて、親の変わりにすべての面倒をみてくれたおじいちゃん、ありがとう。
 
「家のことは心配せずに仕事を頑張ってきなさい」と言ってくれた父でした。
父は起業して失敗したこともあったけど、いつもプロフェッショナルな意識をもった尊敬できる父でした。
いつもニコニコしている本当に素晴らしい父でした。
 
母は1年たっても父がいないことを忘れてしまっています。
これからは、まだ元気な認知症の母との時間を大切に過ごしていきます。
空から見守っていてくださいね。

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