人を判断するの、やめました。
人を見た目で判断しちゃいけないよ。
よく聞く言葉だし、確かにそうかもしれない。
では、中身を知っていたら判断しても良いのだろうか。
そもそも中身を知るとはどういうことなのか。
その人の中身を全て知ることはできるのだろうか。
全て知っていたら判断しても良いのか。
あるいは仮に全て知っていなかったとしても、どの程度知っていれば判断してよいのだろうか。
あくまで僕の考えだが、人は数えきれないほど沢山の”面”を持ち合わせている。
その面を全てを知ることなんて到底できない。
だから無数にある面のうち、たった一面(あるいは数面)だけでその人を判断するには、あまりに勝手すぎるのではないかと思う。
たとえば道で人とすれ違うときに肩がぶつかったとする。
その相手が舌打ちをしてきたら、あなたはどう思うだろうか。
「なんて荒々しい人なんだ」
「私は避けようとしたのになんであいつは避けもせず謝りもしないんだ、ひどいやつめ」
そう思うかもしれない。
ただ、実際その人が”荒々しい人”かどうか、あるいは”ひどいやつ”かどうかなんて、わからない。
もしかすると普段はそういう場面で攻撃してくるような乱暴な人だが、その時はたまたま急いでいたから舌打ちで済ませたのかもしれない。
逆に温厚な性格で普段だったらきちんと謝るような人だが、その時とても辛いことや悲しいことがあって心の余裕がなかったのかもしれない。
本当にわからない。
これはとても極端な例だが、初対面の相手でもそうでなくても、自分以外の他者の言動全てに当てはまることだ。
自分に対していつも丁寧に挨拶しくれるあの近所のおじさんは、もしかすると見ず知らずの人に対して横柄な態度を取るような人かもしれない。
だから、自分から見える面だけを見て「この人は優しい人だ」と判断するには情報が足りなすぎるし、判断するのに充分な情報を得ることなんて一生できないと思う。
そこで僕が常に心掛けているのは、
「起こった事柄やそれに関係する人を勝手に判断せず、事実をひたすらに受け入れる」こと。
先ほどの例で言えば、
「人とすれ違うときに避けようとしたが肩がぶつかり、舌打ちをされた」
「道で会うと自分にいつも挨拶してくれる」
という事実だけを受け入れるということ。
「この人はこういう場面で舌打ちするような一面があるのかもしれない」
「あの人は道ゆく人に挨拶するような一面もあるのかもしれない」
というフワフワした考えに留めている。
そうすることで、
人に期待しすぎた反動でイライラすることも、湧き上がるエゴに支配されて我を失うこともなく、
常に心の平穏を保つことができる。
だからもう、
「こういう人だ」と判断するの、やめにした。
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