【徳島の右下生活】#156日目 初出勤
本質の行動
小学校の非常勤講師として初出勤した。
初日はいきなり遠足で、僕は11時30分からの参加。校区を歩いて回り、チェックポイントごとにいる先生や地域の方から地域のクイズを出題し回答していくらしい。連れてこられて僕は体育館に入ると、大きな声ではしゃぐ生徒たちが見えた。ほとんどの班はすでに歩いて体育館に帰ってきて、自由に過ごしていた。というよりほとんどが走り回っていた。
だから最初に感じた小学生への感想が、「遊び道具なくても遊べるんだ」だ。友達が遊び道具ってことなのか?道具という言葉が適切ではないか。じゃあやっぱり友達と遊ぶ、か。「友達と遊ぶ」って何もいらないんだ、場所や物は関係なくて「誰と居るか」、「コンテンツは2の次」だと再認識した。
何人かはすでに僕のことが気になって寄ってくる。かわいい。
でも僕はそんなに元気でもコミュ力が高いわけでもないから、全然話ができない。ごめん。
先生が笛で集合をかけて(笛の一吹きでピシッと整列する姿に驚いた。軍隊か。)、僕の紹介をしてくださる。ここ半年で一番でかい声を出したわ。
その後の昼食で僕の担当の児童がいる班と一緒にお弁当をいただいた。
全校生徒40名ほどの小さい学校ならではの行事で、他学年と一緒の班で行動する。(コロナの注意もあるが)生徒同士あまり話をしてない。僕は人が多すぎると話すのが億劫になるのだが、何とか担当の児童に話しかけるが、会話2往復で終了。まぁ初日はそんなもんか。
午後からはそのまま体育館でリレーとドッジボール大会。順位が付いて喜ぶ姿を見て、違和感を感じる。ちなみに、僕はドッジボールだと逃げ専だ。戦略も作戦もなく生徒を見て、無邪気だなと。僕も小学校の同級生と未だに遊ぶから、この子らも20年後形は違えど遊ぶんだなと思うとエモかった。
約3時間生徒といたが、とても考えさせられた。
総じて、子どもの言動そのものが「本質」だと感じた。
だから、「知識があり思考のできる子ども」になりたいと思った。
我が降りなおす
今回生徒を見て感じたこれら(笛で集合、昼食の会話、作戦なしのドッジ、順位がついての喜び)は、おそらく僕が小学校の時にも思っていたことかもしれないと思った。
ただ、なんで?とは思いつつも、合理的や周囲との関係が円滑に進むから、抗うよりもコストが低いと考え、流れに沿ってたと思う。
今は抗って、せっかくだから楽しんで、それで周囲も幸せになれたらと思う。
と、頭では理解できているが、小学校の時のように流れに沿うのか、我を突き抜けるのか、自分がどうなるのか観察しよう。
自分で考えるためには?
って題で休み時間考えてた(やることないから)。
まずは言語化がいる。(「ありがとうは?」って礼を促すのではなく、自ら「この気持ちってなんて言ったらええの!?」ってきたらいいな)
次に感情に素直でいること。自分の想いに敏感でよくて、それを周りに配慮して出せたらベストだと思う。でも配慮しなくて出してみて失敗してもいいと思う。何でも「端(極端)」を知らないとその間の塩梅ができないと思う。
3つ目は、自己の核があることと、拡張していくこと。核とは、他者との明確な境で譲れないもの。ただ、その境目もミクロで見続ければないことに気づき、であれば他社も自分も境目がなくなる。これが拡張。
2点目で、自分の想いが何か?何を考えてるのか?という自発的に「?」を出せたり、3点目の自己があることで他者が、もしくは他者があることで自己が浮き彫りになり、対称の対象を分かろうとしたりすることで、自分で考えるようになるのではと考えた。そしてそれを思考するためと他者を分かるための言語が必要だと思う。
では「これは何だ?」と問わせる(好奇心を生む)仕組みはどうしたらいいだろう?
思うに、経験から来るもの(不思議、分からない、不快、など。ここで「美」が最たるものかもしれないと考えたが、余裕があれば書く)が必須。それは「自発的」でないとそもそも意味がないから。
では環境に焦点を当てると、「聞ける環境」や「応えてくれる人(≠答えてくれる人)」、もっと言うと「一緒に考えてくれる人」が必要。いいや、そもそも「言いたくなる人」がいたらそんなものすべて解決するとも考えた。
言いたいから考えるし、調べるし、誰かに聞く。
つまり「インプットしたままにさせないこと」が究極だと思った。
だから、「これは何だ?」と問わせた人が「言いたくなる人」であれば最強。
あーー、子どもすげーー。考える余地ありすぎるし、通り越して考えることが意味ないんじゃないかとまで思わせられる。先生らもすげーーわ。zzz