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初めて台所に立った日に

初めて一人で台所に立った日、私は自分で想像していたよりもずっと楽しんでいたのだ。

ご飯が出来上がるのをテレビの前で寝そべって待つ子どもだったので、実家を出るまでほとんど台所に立つことはなかった。小さい時に手取り足取り教えられながら、母の仕事を増やしながら「お手伝い」をしたくらい。あとは、中学生・高校生のときのバレンタインデーにお菓子の大量生産をしたくらいだろうか。あれは大変だった。とにかく量を作らないといけないのに、味も妥協できなければ見た目も重視しなければならない。お菓子作りを得意とするならともかく、イベントの時だけ台所に入るような人間には完全にキャパオーバーの仕事だった。毎回ほぼ徹夜で作業をしていた。付き合わされる母が怒らなかったのは自分も学生時代に経験があるからだろうか。
普段の食卓に並ぶような料理を作ったことがないから、段取りが分からないしどれくらいの時間がかかるのかも分からない。でも便利なもので、何でも調べればレシピや所要時間なんかも出てくる。出来合いのそろったスーパーも、コンビニも、デリバリーもある。まあなんとでもなるだろうと実家を出た。

もちろん、実家を出たからといってすぐになんでもできるようになることはなかったけれど、慣れない料理をすることよりも大変だと思ったのは、20年以上培った食生活をがらりと変えてしまうことだった。実家では当たり前のように3食違うメニューの食事をしていた。色どりや栄養バランスが母によって整えられた食事を20年以上とっていたのだ。母は「健康のためだからといって美味しくないものを食べるのは違う」とよく言っていた。食べること、それも美味しく楽しく食べることを大事にする文化の中で育ってきた。今まで深く考えたことはなかったけれど、毎日の食事は私の中で重要なことのひとつみたいだった。体を動かすための、自分を生かしておくだけの食事はもしかすると台所に立たなくても手に入るのかもしれないけれど、それを私の中のなにかがよしとしなかった。胃袋は満足できても心が満たされない。それならば、もう台所に立つしかなかった。自分の心を満たす術を自分で持っておくことは何においても最優先事項だった。

さあ、何から始めようか。美味しい食事をしたいけれど、まずは安全な食事だ。不可食部は取り除き、きちんと加熱し、火事を起こしてはならない。ガス火であれば見た目で火力が分かるが、初めてのIHだ。数字と火力がつながらない。フライパンを何度も焦げつかせた。便利な家電たちに手伝ってもらうが、なんでもフル稼働させすぎるようで急に部屋が真っ暗に静かになってしまう。やれやれ。食材を生で触れるのもほとんど初めてに近かった。切りにくいだろうからと8等分にされたカボチャを選んで買ったのに、一口大に切り分けるのの固いこと! 私の筋力が衰えればカボチャを口にすることはなくなってしまうだろう。予想とは裏腹にジャガイモはすんなり切れた。固そうな見た目をしているのに、そんなに柔らかかったのね。

手こずってばかりのスタートだったけれど、楽しい発見もあった。野菜をたくさん入れたスープを作っている途中、味付けをする前に少しすくってなめてみた。それは水道水を入れたはずなのに、きちんと温かい野菜スープになっていて小さく感動してしまった。スープを作っているのだから当たり前だけれど、水道水が調味料を入れずとも野菜でこんなに美味しくなるなんて。料理というより理科の実験に近いような気持ちで、具材を変えて様々なスープを作った。味を調える前の途中過程で、よく味見をした。食卓に並ぶのは完成品ばかりなので、途中の味見は楽しかった。味噌を入れる前の味噌汁、炒めただけの野菜、これから使う合わせ調味料。うまくいかないことも多かったけれど、毎回退屈しなかった。毎日のタスクとなると、退屈しないというのは大事なことだ。

上げ膳据え膳がありがたいのは言うまでもないけれど、台所に立つ人だけの楽しみもあるのだ。私のように味を加える前に味見(つまみ食い?)をしている人がどれくらいいるのか分からないけれど、味を調えて熱々を冷ましながら食卓に並べる前にする味見は、達成感も相まってあらゆる料理の一番美味しい瞬間ではないだろうか。冷蔵庫の中身を全部使って美味しい一品ができたときの感動は、きっと日々の食材を管理して調理する人にしか味わえない。自分の食べるものを自分で触って切って用意することは、時間がかかるように見えて実は手っ取り早く自分を満たすことにつながるのかもしれない。

これから食材の扱いに慣れてもう途中で味見をしなくなったとしても、私は初めて台所に立った日を大切に覚えておきたい。


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