「古典」の響きに魅せられて
古典という「宇宙」とのファーストコンタクトは何だったのだろう。古事記も万葉集も源氏物語も枕草子も古今和歌集も「歴史のテストに出る単語」で、シェイクスピアは「映画の原作」だった。思い返したとき、記憶の底から浮かんできたのは中学校の国語の教科書。あれは平家物語の一節…だったはず…うん、そういうコトにしておこう。
予習の概念のない困った学生だったので、国語の教科書は「読み物」としてしか目を通していなかった。平家物語は原文で載っていて、仮名遣いが難しかった。と・こ・ろ・が、どんなに難しくとも、中学校の国語の教材である以上、誰かが音読しなければならないのです!授業であてられた子はみんな頑張って読んだ。活字をそのまま、たどたどしく。しばらくして、先生は見かねた(聴くに堪えなかった)のか、口語でちょっとだけ読んでくれた。いつになく朗々としたその声。先生は古典がお好きだったんだろうな。キラいになりそうなほど無味乾燥な遥か昔の言葉に音とリズムが付いて、血が通ったその瞬間。「あぁ、これ生きてるんだ。だから今も読むんだ。」とウロコがばらばら落ちて、教科書に書き込みをするのはあんまり好きじゃなかったのに、一生懸命、読み方のルビを振った。
興味は沸いたけれど、どこから手を付けたらいいのか、そもそも何を識りたいのか、全てが不明瞭で、そのうち古典はふんわりとした「憧れ」になった。古典を表す単語の蓄積は知ったかぶりでしかなくて、「なんか違う」と思いながら。
そんな漠然とした想いすら忘れかけていた頃、飛び込んできたのが古典を「ごくごくのむ」機会。日々古典を「呼吸」している先生方の授業に昇華された熱と正面から対峙した時間は何ものにも代え難い宝物になった。毎講座、惜しげなく降ってくる情報量が多すぎて、正直消化しきれないけれど、受講生の皆さんともお話しをさせてもらいながら、少しずつ、少しずつ身に付けていきたい。
座右の銘を尋ねるインタビューはたくさん見かける。故事成語や四字熟語が回答されることが多いように思う。故事成語ほど日常生活に溶け込んでいる古典もないと思っているけれど、岡野先生や梯先生による万葉集講座回にもあったように、かつて家族への最後の手紙に万葉詩歌をしたためた将校たちがいた。自分の一番大切な想いを千年以上も前に生きていた人たちと共有できる贅沢はそうそうない。座右の銘として、さらっと万葉集を引用する粋人はいないものか、上野先生以外で。
蛇足ながら。
大河ネタで恐縮ですが、万葉詠いの推しを聞かれた十兵衛が「柿本人麻呂に尽きる」と断言するくだりがあって、制作サイドの人物検証に隙がないなぁと感心してました。初期の頃の放映回で、古今和歌集を抱えて文句を言う信長の描写はあったけど、万葉集まで盛り込んでくるとは。個人的には「大伴氏」が最推しなので、十兵衛と同担じゃなくて残念です。知らんけど。
2020年12月18日
Mai
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