2年半ぶりにライブに行って号泣した話
海外旅行。ライブ。観劇。
音源を耳だけで聴いたり、絶景の写真を目だけで見るのとは違い、五感の全てで圧倒的な量の情報を浴びて感情が揺さぶられる、私の大好きな時間。
すべてコロナ禍によって失われていた。
初めの頃でこそ「海外に行きたい…」とうずうずしていたものの、いつしか少し不便な新しい日常に慣れていった。
慣れた、と思っていた。けど、そうではなかったようだ。
先週、2年半ぶりにライブに行ったわたしは、涙が止まらなかったからだ。
コロナ禍で減った"一次情報"を浴びる機会
私は、体験は"一次情報"に近ければ近いほど好きだ。
例えば、本を読むのは、著者が体験したことを著者のフィルターを通してまとめられたものなので"二次情報"。
さらに、YouTubeで本を要約した動画も昨今よく見かけるが、これは本の二次情報をさらにチャンネル主のフィルターを通して編集されているので"三次情報"。
冒頭に挙げた『海外旅行。ライブ。観劇。』はまさに、誰のフィルターも通してない、私の感覚器官が私の脳に直接届ける経験。
対面がタブーとなったことはつまり、一次情報を得る機会を失ったということだ。
2年半ぶりのライブの日。
久しぶりの、そしてコロナ禍になってから初めての体験で、圧倒的に心を揺さぶられたことをしたためる。
心からの発信「ずっと、これを欲していた」
歌が始まった瞬間から、わけもわからず涙があふれていた。
ここで言う涙はうるうるなどの次元ではなく、お腹が痙攣するかと思うほどしゃくり上げていた。
私は正直、普段のライブでも歌詞に共感して涙しているので、涙自体がレアかというと否だ。
だけど、この”歌が始まった瞬間”の涙に限っては、歌声だとか歌詞だとかの具体的な何かに感動したのではなく、ただ心が「ずっと、これを欲していた」とサインを出したように思えた。
声が出せなくても、あの一体感は生まれる
ライブ中盤、いつものライブでは観客で合唱するのがお決まりのパートも、暗黙の了解でアーティスト自身が歌う。
もちろんライブの前からそうなることは覚悟していて、何なら残念に思っていた。
でもいざその時を迎えると、手拍子だけの空間に、合唱で感じていたのと同じ”会場の一体感と高まり”が満ちていた。
想定外すぎてかなり動揺した。
気持ちさえ一体になれば、出力方法は歌だって手拍子だって、何でもよかったんだと知った。
余談:高橋優さんについて
ちなみに、私をここまで昂らせたのは高橋優さん。
高校生の頃に友人からCDを借りて聴き始めてから、かれこれ10年以上聴いている。
(新曲が出たら毎回すぐ聴くとかの熱狂的なファンではないけど、逆に過去に熱狂的に好きだった人たちはもう気持ちも下火になっているので、逆に長く続いている秘訣なのかも)
社会人になってからは毎年ライブも行っている。
音楽の人生への関わり方って人それぞれだと思っていて、人によっては"音源がメインで、ライブはその音源の人に生で会えるレアな機会"みたいな人もいると思う。
だけど私と高橋優の場合は"ライブがメインで本当は毎日でもライブがいいけど、無理だからライブ以外のための音源"っていうくらい、ライブありき。
高橋優さんは、ライブのときに、歌詞が”届く”感覚がある。
この感覚は正直すべてのアーティストで感じられるわけではないので(感想が「生歌でも上手だなぁ」で終わったり)、高橋優さんの歌で伝える力はめちゃくちゃすごい(語彙力喪失)。
これが熱狂的ファンでないのに毎回ライブに行き、今回も号泣してきた理由。
気を遣う大人数の飲み会がないのはうれしいし、家にいるのも一人でいるのも好きだから、自粛は苦じゃないって思ってた。
そんな私でも初めて、「当たり前だった日常が戻ってきてほしい」と、切に願った。
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