『作品48』
「私のレクイエムは、特定の人物や事柄を意識して書いたものではありません。……あえていえば、楽しみのためでしょうか」 ガブリエル・フォーレ (Wikipediaより抜粋)
リピート設定された曲が再び流れ始める。
管弦楽の斉唱が低音を鳴り響かせ、宗教的な合唱が歌う。テノールは甘く透明な声で祈り、やがてボーイソプラノが受け継ぐ。最後に、四部合唱が再び歌い出す。「永遠の安息を、僕の上に、永遠の光を、照らしたまえ」
椅子に座った男がひとり。スピーカーから流れる薄い音に注意深く耳をかたむけている。壁掛けの時計は午前二時を回ってい、秒針が巨大な音をたてている。先刻までの風はやんだ。車の往来は遠くかすんでしまった。強靭な犬歯を剥き出しにする近隣の犬たちも、今夜は鳴声ひとつあげていない。
男の身体は汗ばんでいる。ヤケに蒸し暑い夜だ。昨夜は風呂に入ったかな、脳裏に浮かぶ。男は3日間風呂に入っていない。部屋の照明はデスクスタンドだけ。空中の無数の微粒子が、そのオレンジ色の小さな光の前で煙をあげているように浮かんでいる。部屋のありとあらゆる物の背後に、無表情で長い影が伸びている。クローゼットの前には靴下やシャツなどの洗濯物が丁寧に畳まれている。クリーニングから戻ってきたばかりのスーツが袋をかぶったまま吊るしてある。全身を映す鏡。ベッドが映しだされている。ベッドの上に女が眠っている。鏡の中の女は顔をこちらに向けている。男は鏡の中の女に声をかける。返事はない。女の名前を呼んでみる。返事はない。鏡の中だからかな? もう一度名前を呼ぶ。返事はない。おかしいな、どうしてだろ。もう少し大きな声で女の名前を呼んでみる。返事がない。おかしいな、どうしたのかな。もっと大きな声で女の名前を呼んでみる。返事がない。男は大声で女の名前を呼ぶ。返事がない。怒鳴る。返事なし。ああ、なあんだ、現実の女はこっち、ベッドの上で眠ってるんだっけ、男は気づく。
蒲団の隙間から均整のとれた脚が僅かにのぞいている。柔らかそうなズボンの裾がめくれ、白すぎる肌が剥き出しにされている。男は女に近付く。質の良い髪が岩辺にうちあげられた海薬のように顔にへばりついている。男は髪を丁寧にほぐし、女の耳にかける。綺麗な面長。出窓から差し込む月の光が女の面長を照らす。剥がれかけた化粧。針で刺した程の小豆色の吹出物をまばらに目立たせている。上向きの長いまつげ。深く開じた瞳を覆っている。肉付きの良い熱情的な唇。僅かに開かれ、行儀良く並ぶ小さな歯を覗かせている。男は女の首元にキスをしてみる。湿り気を含んだ肌の感覚が唇から全身へと伝わってくる。髪のいい香りに混じった、女の汗の匂い。若い女特有の、甘く酸味を含んだ匂いが男の鼻腔を刺す。男の性器が異常に膨れ上がる。男は反射的に女の胸元に顔をうずめる。小ぶりでかたちの良い乳房。触れてみる。下着の妙に張りのある感覚。女が着ているグレーのニット。男は隙間から手を入れる。乳首をつまむ。砂糖をつまむように優しく。男は女の名前を呼ぶ。女は眠っている。男はもう一度女の耳元で囁く。女は眠っている。男は口中に嫌な匂いを感じる。机上の冷めたコーヒー。ひとくちすする。食べかけの乾燥したモンブラン。ひとくちかじる。こんな味だったかな、男はつぶやく。
男は出窓を開ける。夜空を見上げる。新鮮な空気が部屋に入り込む。夜空には月が浮かんでいる。月は金色が赤みを帯びたような色に滲んでい、その周りを淡い白色が覆っている。夜空の闇と月の強烈な光が溶け合うコントラスト。落ち着き払ったその無言の月は四十五億年以上も前からそこにいる。見てたのかい、男はつぶやく。出窓に置いてある手鏡で自分の顔を眺める。きれいな顔が映っている。瞳にかかる長い前髪。かきあげる。もう額に汗はかいていない。鏡の中の男は笑みを浮かべている。その左頬はスタンドに照らされ赤らんでいる。暗く窪んだ右頬が羨むかのように輝いている。
嘔吐。
込み上げてくるもの。
嘔吐。
ほとんど食事を取っていない男の口からは何も出ない。
嘔吐。
嫌な匂いとコーヒーとモンブランの残りかす以外は。
嘔吐。
男は女に手を伸ばす。
嘔吐。
女は何も言わない。
男は女の名前を呼ぶ。
嘔吐。
オーディオからはレクイエムが流れ続けている。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?