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すくい上げる(あいちトリエンナーレ2019)
この現代の社会に存在する様々な問題。
そのどれも、抽象的な概念の中から浮き出てくる話じゃない。
とても具体的なところから生まれるはず。
端的に言えば、人の中から生まれるはず。
それがたとえ、たったひとりの心の中からであっても。
誰かの傷、痛み、憎しみ、怒り、それが社会の問題を表出させる。
現代アートって、
そうした「心の動き(=感情、情動)」や、
そこへの「人情、思いやり(=情け)」を丁寧にすくい上げて、
それらを「本当のこと・本当の姿(=実情、情報)」として、
社会に提起することのできる表現行為の一つだと思う。
移民・難民、家族、災害、事故事件、戦争、公害、差別、迫害、いじめ….
人がこの世で共に生きる以上、本当にたくさんの痛みがある。傷がある。
生きていることは、生きぬくことは大変なことだ。
ある小学生が遺した言葉(=詩)を通して、そんなことを考えた。
生きぬく
生きるってことはかんたんにかんじるけどさ、
ほんとうにかんたんなことかな、
どんなかなしみがあるかわからない
どんなくるしみがあるかわからない
そんなところでいきをしなければならない
でもそのことにたえひっしに生きぬいた人こそが
どんなことよりすばらしいことだとおもう
きみも生きぬけ
2011年4月18日午前7時45分ごろ、
栃木県鹿沼市で集団登校中だった児童の列にクレーン車が突っ込み、
小学生6人がはねられ全員が死亡した。
この詩を書いた熊野愛斗くんは、その中のひとりだった。
これはあいちトリエンナーレ2019、四間堂・円頓寺エリアの「メゾンなごの808」にて展示されている、弓指寛治さんの<輝ける子供>での一節。
展示では、亡くなった生徒とその遺族、そして加害者であったクレーン車の元運転手とその母親、それぞれへの入念な調査から、亡くなった生徒達の姿やエピソード、加害者側の現実や裁判に関する事柄が、様々な形式をとって表出されていた。
個人的に、最も心を動かされた作品の一つだった。
弓指さんは作品について、冒頭でこう記している。
今年はこども達が犠牲になる交通事故のニュースが多い。
「また痛ましい事故が起きてしまいました…….」
「……二度とこのような事故が起きないことを願います」
「次のニュースです」
これはメディアの性質上、しかたがないと思うけれど
交通事故の背景にはもっと色々と、ある。
事故の報道を見るたび「何かが抜け落ちている」と思っていた。
僕はその「抜け落ちている何か」を探したい。
数字や文字にされた情報のおかげで、人は他者にその出来事を端的に伝えられる。共有できる。
ましてや、今の時代ではそれが空間や時間を超えていく。
ただ、そこに想像力、あるいは「感情・情動」や「情け」が伴わない限り、
その情報は無力になってしまう場合がある。その出来事がもたらした誰かの痛みや悲しみ、傷は浮き上がってこなくなってしまう。
初めの話で言えば、傷が共有されないまま、それは「ただの社会問題」と化してしまう。だからこそ、当事者の負った傷と向き合って「抜け落ちた何か」を探すしかないのだと思う。
3.11の後に、ビートたけしさんが語った「悲しみの本質と被害の重み」という話を思い出す。
常々オイラは考えてるんだけど、こういう大変な時に一番大事なのは「想像力」じゃないかって思う。今回の震災の死者は1万人、もしかしたら2万人を超えてしまうかもしれない。テレビや新聞でも、見出しになるのは死者と行方不明者の数ばっかりだ。だけど、この震災を「2万人が死んだ一つの事件」と考えると、被害者のことをまったく理解できないんだよ。
じゃあ、8万人以上が死んだ中国の四川大地震と比べたらマシだったのか、そんな風に数字でしか考えられなくなっちまう。それは死者への冒涜だよ。
冒頭に引用した愛斗くんの詩は、「抜け落ちた何か」の一つなのだと思う。
そして、今回それをすくい上げたのは、記者でもなく教師でもなく、弓指寛治というアーティストだったのかもしれない。
ただ同時に、加害者側の苦しみにも目を向け、裁判の記録も調査した上で、
作家である弓指さんは誰も断罪しなかった。哲学的な答えなども用意しなかった。あくまで、神の視点を持つことは避けていた。そう感じた。
確かに、調査の中で彼が感じ取ったものは絵や文章に表出していたはずだが、ある意味での「結論」は意図的に持たせないようにしていた。
個人的には、そう感じた。
これは田中功起さんや是枝裕和さんなどの作品にもしばしば感じることだが、彼らはあくまで第三者として、当事者に向き合い、その結果を問いにして観客である私たちに投げかける、そこまでで表現を止める。
そしてどんなに政治的、社会的なテーマを扱っていても、
社会を語ろうとして人に語らせるのではなく、人に語らせた結果として社会を浮かばせる。
だからこそ、私たちは咀嚼に時間がかかる。
誰かを責めれば、悪者にすればそれで済む話には絶対にさせない。
黒白つけれない、グレーとも言えない、その微妙なニュアンスを持たせている。
作家としての凄みをそこに感じた。
最後に、愛斗くんの詩をもう一つ引用する。
償い
もしきみがつぐないをしなきゃならなくなったとき、
きみはどうするだろを。そのつぐないのおもみをせなかにせおい、
いっしょういきるのかい
それじゃあせっかく神様があたえてくれた人生がむだになるよ
つぐないならいっしょうけんめいいきぬいたそのさきですればいい。
いまは、たのしくいきればいい。
くまのまなと
以上です。
あいちトリエンナーレへ行かれる方。
ぜひ、弓指寛治さんの<輝ける子供>、ご覧になってみてください。
四間堂・円頓寺エリアの一番西側、「メゾンなごの808」の1Fです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。