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無理に周りの感情に同調しなくてもいい。
TwitterをはじめとしたSNSには、日々大量の情報とたくさんの人間の感情がひしめいていて、アプリを開くたびにそれらが濁流のように流れ込む。
それによって、いつでもどこにいても、“誰か”の日常やそこにある感情にアクセスできる。
不特定多数の意識がひしめくSNSという広大な海にどぼんしたとき、そこで見た光景によって、つい自分の行動を周りと合わせてしまったりすることはないだろうか。
たとえば、お友達とオンライン飲み会をして楽しい気分のときにたまたまTwitterを開いたら、たまたま別のお友達がとても落ち込んで辛い状況にいることが分かったり。
ときにはその逆で、自分が思い悩んで悶々としているときに、お友達の充実した私生活を目撃したり。
どちらの場合も、そっとアプリを閉じてしまったりすることがある。
他にも、自然災害や著名人の訃報など、多くの人にネガティブな影響を与えるような出来事が起きたタイミングなどで、たまたま自分は全く別の場所で楽しい思いをしていたりして、そこに何故か妙な恥ずかしさを感じてしまったりする。
いま、オンライン飲み会楽しかったなんてツイートしたら空気読めない奴って思われるかな…??不謹慎かな…??
たくさんの人が大変な思いをしてるときに、推しのお誕生日を祝うのは控えた方がいいかな…??お祝いムード出しても平気かな…??
とか。
私はつい、気にしてしまうのだ(´・ω・`)
そういうときに思い出す曲がある。
backnumberの「bird’s sorrow」という曲だ。
誰かが言った この一週間は特別で
私の人生を 左右する大事なもの
それでも僕らの街は いつもと同じような
一日を七回繰り返すだけだったな
いつでもそうなんだ どっかで誰か泣いていて
そのとなりの部屋では 誰か笑っていて
繰り返す日常と 二度と来ない特別な今日が
同じ空の下 淡々と流れてゆく
誰かにとっては人生が一変するような一日でも、また他の誰かにとっては平凡な一日。
その人の置かれている状況や抱えている事情によって、同じ一日でも全く違う景色が広がっている。
普通に考えると当たり前のことなのだけど、何故かいつも私はオンライン上の誰かの感情に引っ張られがち。
“見られている意識は大事”というけれど、たぶん、大事なのは“合わせること”ではないよね。
そう改めて気づいた一日でした。