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あたらしい故郷を想う

言葉に閉じ込めてしまったら、留学生活の毎日の鼓動が、遠いどこかに不可逆に消えて聞こえなくなってしまいそうで、ずっと書き出せずにいた。気づけば帰国してもう1ヶ月が経つ。そして加筆する頃には2ヶ月が経とうとしていた。

昨年8月、身ひとつでシンガポールへ飛び立ち、異国の地での毎日が白紙から始まった。深すぎる孤独と不安を前にして落ち込むことはできず、日々出会う未知の気配を面白がりながら、ただ猪突猛進に生きた。快かった。当たり前だけど、関係性がひとつもない土地に身を置くと、自分から動かないと何も始まらない。東京での、関係性過多による後味の悪い疲労は全く顔を出さず、シンガポールでの疲れは爽快だった。毎晩、今にも寝そうな手つきで簡単な日記を書き、この日という瞬間を逃すまい、書き残さねばと一言を書き殴っては倒れ込むように眠りについた。美しい毎日だったようだ。

友達はできなくてもいいや、学業に専念しよう。と留学前本気で考えていた捻くれは一瞬で霧散して、嘘偽りのない自分を表現したいと思える仲間たちに出会った。「居場所」という言葉で表すような一時的な安心感なんてものではなく、自分がただ自分らしく在れる別世界を得たような感覚だ。どんな世界よりも心地が良かった。「あたらしい故郷」だと思う。

それは、今まで見てきた景色、生きてきた道が互いに交差しない探検家同士の、孤独な旅路でふいに出会った奇跡に近かった。時に過酷な旅路で、歩みを止めずに独り進んできたことを互いに祝福するような出会いだった。それは、全く違う者同士の、未知への前のめりな姿勢と、細心のリスペクトの上に脆く成り立つ、真に国際的な交わりだったのかもしれない。国籍や年齢の違いを抜きにして、地元で同級生だったとしても圧倒的に気の合う仲間であろう人々だ。みんなちょっぴり天才で、抜けていて、そして非常に変な人たちだった。滲み出る優しさは抱えたままぶっ飛んでいた。大好きだった。

日に日に感動も、忘れたくない風景も増え、帰国の日には宝箱いっぱいにした大切な何かを、荷重オーバーでどうしようもなく零れ落としながら海を越えた。泣き虫な私が1年間ほとんど溢すことなく蓄えてきた涙は、最後の別れで全て使い果たして総決算された。


・・・

10ヶ月の空白の後、ふと元いた場所に帰ってきて何食わぬ顔でみんなの日常に滑り込む。懐かしい日常との再会は、どこかぎこちなかった。単一の言語しか聞こえてこない環境に、音の寂しさを覚える。最後の方あまり使っていなかった日本語が不恰好に紡ぎ出され、ようやく肌に馴染んで自分のものとなった英語は、早足で遠くに消えていく。「あたらしい故郷」は、言語と共に手の届かない宇宙の果てに飛んでいってしまったと錯覚する。耐えられなかった。

勿論、久しぶりの友人との再会には歓喜した。1年前と同じ仲間たちと、同じようにご飯を食べて大学で授業を受ける。空白を感じさせない居心地の良さに、恵まれた友人関係を噛み締める。だけど、わたしが見ていた記憶は、誰もちゃんとは知らない。知らない記憶を知ることは誰にもできない。そして本人ですら、記憶の輪郭があっけなく曖昧になって取り出せない。この10ヶ月の存在が、本当は実在しない夢物語だったんじゃないかと疑うほど、あっさりと元いた場所に戻れてしまったのだ。何が起きているかを咀嚼する隙も潰して、多忙な東京生活に自ら身を投じた。忘れるようにして、寂しさをかき消したつもりになった。

東京は面白い街だと思う。だけど、魂を盗られずに目に光を宿して生き延びるには、私には難易度が高い忙しない場所だ。元の生活に戻って1週間、帰路に立つ自分の疲れ切った表情を車窓に映る反射にみた時、とてもショックだった。悲しかった。留学先のうだるような暑さの毎日でも、真っ直ぐに力を宿していて、世界をとびっきりに好いていた、鏡に映る自分の目はどこへいったのだろうか。

よく散歩をする。地元の風景は、ちょっぴり窮屈で、戻ってきてしまったことにがっかりした。犬と歩く街だけは豊かで楽しい。家なんて飛び出したいばかりだ。毎晩、自宅へ歩く10分間、疲れ切った心身でシンガポールでの生活を想う。あの、輝き高揚していた毎晩を想う。忘れたくない一心で、今日も使うことのなかった英語を、ぽつりぽつりとひとり話し始める。暫く出番がなく拗ねていたもう1人の自分が、どんどんと活力を取り戻して笑顔になり、世界中に繋がれるという安心感と、未知への高揚を思い出す。曇りなき言葉で、確かな感触を持って前に進むための密かな儀式だ。もっと違う言語も身につけたい。そこから覗ける世界を見てみたい。

自分に生きる活力と、世界を面白がる姿勢をくれた10ヶ月の生活は、今日も身体の中で確かに脈打っている。きっと大丈夫だから、歩み続けよう。そしてまた再会しよう。

次はどこへ向かおうか

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