宗教学者になりたかった
思春期に、宗教学者に憧れた時期があった。
なぜだかわからないけれど、今から思えば「祈り」に何か魅力的なものを感じていたのかもしれない。
国と時代が違えば、修道女になっていたかもと思っていた。
小学校の低学年時代は、近くに教会があったので日曜学校に通い聖書も少しだけ読んでみた。
今でも讃美歌は大好き。
家族は形式的に仏壇はあっても、拝むのはお坊さんが来るお盆だけというほぼ無宗教。
年に一度きれいな袈裟(けさ)を着てやって来て、低音が響く良い声でお経を読んでくれるお坊さんにも興味津々だった。
小学校高学年になると、祖母だけが勉強熱心なキリスト教徒になった。
子どもながらにも祖母にとってはとても必要な宗教で、遊びに来てくれる人たちも純粋で優しくて良い人たちだということはわかった。
でも聖書の解釈が違う別の宗派に関して、祖母が「間違っている」と言うのを聞いて、ひとつの宗教に入る=他の宗教を否定することになる??と不思議に思った。
子どもながらに、(キリストさんがこのことを知ったら何て言うのだろう?)と想像した。
その後、世界中の宗教について知ったら何かわかるのかも、と思って宗教学者に憧れた。
かつて人を救おうと宗教を広めた人たちは、「祈り」の気持ちは同じ?と思いたかったのかもしれない。
そして年齢とともに興味は仏教や神社に移っていった。
高野山にご縁があったところから、日本のレオナルド・ダ・ヴィンチとも呼ばれる弘法大師 空海が大好きになった。
最近は特別な修行や勉強をしなくてもそのほかの方法で、例えば音楽というツールを使っても、人の気持ちを救うことができる時代になった気がする。
音楽は一瞬で過去にタイムスリップできたり、気持ちを癒したり、気分を上げたりすることができる。
キリストや仏陀や空海が、今の時代を見たら何て言うのだろう?と時々思う。
今のような激動の時期、私たちがのりこえることができるように、どうか力を貸してください。
いつか、何のために生まれてきたのかを思い出す日がきますように。
そして、エゴなく人を助けるために動いている人たちが傷つかないように、お守りください。
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