『ルックバック』とはなんだったのか?考察:3本の映画と藤野の世界 ※ネタバレあり
2021年7月19日、藤本タツキの読み切り『ルックバック』が公開されると、瞬く間に話題になった。漫画としての面白さはもちろん、京アニでの惨劇から2年という日に合わせた公開日に、「追悼作品」という意味でも話題をさらった。(少ないとは思うが事件について知らない方は各自調べてほしい)
私もツイッターで見かけて何の気なしに読んだ。初見でハマったというより、2度3度と読むたびにハマったという感じで、ツイッターでその都度ツイートしてたのだけど、ツイッターだとまとまらないので個人的な整理のためnoteに記す。以下、内容に言及しまくるので未読の人は下記リンクより読んでから下に進んでほしい。読んでないのにこのnote読まないとは思うけど。
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1:『Don't Look Back In Anger』
タイトルの「ルックバック」と最初のコマ、それもわざわざ右上に見える「Don't」、最終コマ左下に配置された「In Anger」、それをつなげ並べ替えると『Don't Look Back In Anger』、Oasisの超名曲です。
まず話題になったように、京アニ事件からちょうど2年という日に発表された作品に、マンチェスターテロの追悼でもアンセム的に歌われたこの曲名が隠されていることで、「ルックバックは京アニ追悼だ!!」と話題になりました。
でもここで最初の疑問が。なんでタイトルをちりばめたんだろうか?追悼ならそのままタイトルとして拝借してもいいのに。まぁそのままタイトルにするのはちょっとカッコ悪いけど、、という疑問がこの作品のテーマに繋がってくる。
そしてそれ以外にも映画へのオマージュが本作にはあり、それらも同様に本作のテーマと繋がっていきます。
2:ルックバックを紐解く映画その1
『Once Upon a Time in... Hollywood』へのオマージュ
最終コマにある「Once Upon a Time in... Hollywood」(以下ワンハリ)のDVDジャケが示唆する通り、ワンハリへのオマージュが本作の大きなポイントとなっている。※ワンハリのラストに触れるので未見の方は以下注意。
NETFLIXでワンハリ観れます→https://www.netflix.com/jp/title/81064867?trkid=13747225&s=i
最初に読んでワンハリのオマージュへ感じたことは以下のツイート。
ワンハリでタランティーノが何をしたかざっくり説明すると、ハリウッドの惨劇シャロンテート事件を題材にし、ラストでディカプリオとブラピが犯人のマンソンファミリーを返り討ちにしてみせました。
映画公開時に「必ずシャロンテートを予習していけ!」と言われてたんですが、それは知らないとラストシーンの捉え方が全然違うんですね。
アメリカ人の立場で想像するとわかりやすいですが、かの有名なシャロンテートが映画に登場した時点で観客はこの後、妊娠中に惨たらしく猟奇的に殺された結末が頭をよぎり悲劇に身構えます。
映画は悲劇のラストへ向かい進んでいく。が、しかしラスト、惨劇の直前で史実にないディカプリオ&ブラピが登場し、今でも一部でカルト的に崇められているマンソンファミリーを火炎放射器で焼き払ったり、馬鹿馬鹿しいくらい痛快にぶっ殺してしまうわけです。
タランティーノの「このクソ野郎どもめ!俺の映画ではお前らの好きなようにはさせねえぞ!!」って声が聞こえてきそうです。フィクションの中でだけはシャロンテートの魂を救済し、現実のマンソンに対する一部のカリスマ的幻想に対し間抜けな死をフィクションで描きマンソンの神格化に泥を塗ります。
フィクションの中で現実を書き換える、映画の力を信じるタランティーノの手法。
ルックバックも、ワンハリのマンソンや京アニの犯人と同じく妄想に取りつかれ、京本を殺した犯人を「藤野の想像の世界の中」で、カラテで打ちのめす。
犯人を倒した後の藤野がストレッチャーで運ばれ救急車に乗せられるシーンまでワンハリと同じで、作者藤本タツキの、漫画を、エンタメの力を信じる意思を強く感じ、良い作品だなぁと思いました。
ここまでが、初めて読んだ感想。でも疑問が残りました。
なぜDon't Look Back In Angerでないといけなかったのか?
別にわざわざ追悼アンセムで「追悼ですよ」なんて示唆しなくても、追悼がテーマだとしたら伝わるだろう。タイトルを細切れにした意味は?
という疑問が残り、時間を空け2度、3度と読みます。
3:ルックバックを紐解く映画その2 『Interstellar』へのオマージュ
※以下、映画「インターステラー」のネタバレ含みます
ルックバックの中で、ワンハリ以外に大ネタを使っているのはインターステラーへのオマージュ。時空を超え2つの違う時間軸をつなぐ4コマ漫画のシーン。
まんま、インターステラーの「時空を超えた本棚越しの会話」からの拝借です。
インターステラーネタで時空を超えたことで、そのほかのシーンも気になってきました。
↑元々、本を通常通り左から並べていく藤野が
この「現実⇔想像」のルールに着目し読み返すと、この作品が「現実と想像が混在しミスリードするように作られている」ことに気付きます。
インターステラー演出以外にも象徴的なシーンがあります。以下のシーンは椅子がメタファーとして使われたシーン。
これらのシーンに着目すると、「人の想いが時を超える」インターステラー的演出が使用された理由がわかってきます。
この作品は、単にワンハリ的演出で「悲惨な現実をフィクションで塗り替える」だけではダメだったのです。
そしてこの「時を超える」演出には、また別の映画のオマージュが浮かび上がってきます。
4:ルックバックを紐解く映画その3 『JOKER』へのオマージュ
それが、映画「JOKER」です。(以下、例によってネタバレです。観てください)
JOKERからの演出引用は、「虚構と現実の交差」です。JOKERは「ラストシーンのJOKERだけが本物で、それまでの99%はJOKERの作り出した妄想」という作りです。
しかし「巧妙な嘘は8割の真実の中に隠すもの」という通り、現実(と思われる)のアーサー・フレックという人物のストーリーに嘘を織り交ぜ、JOKERが誕生し、どこのシーンでアーサーとJOKERが入れ替わったか分からない作りで進行していきます。
それも嘘なのですが(ざっくりなので細かいツッコミはナシで)。
ルックバックでも、「現実の時系列」とミスリードさせながら「藤野の想像の世界」が差し込まれていきます。
(京本に認められ、作家「藤野」が誕生するシーンでの雨中のダンス。あれもJOKERが生まれる2度のダンスシーンとダブりますが、あのシーンの意味はJOKERに求めなくてもいいかな、と思います。あくまで藤野の感情の発露、ということで。ポン・ジュノ監督の「母なる証明」のダンスに重ねる声も見ましたが、ダンスの意味が違うのでこれも違和感がありました)
「藤野の想像の世界」が差し込まれていくのが、前述した「街で遊んだ帰りに電車で京本が藤野に感謝するシーン」で、これは藤野が京本に言ってほしかった、こう思われていたいという願望を表しているとともに、この作品が最初の1ページ目から藤野の回想で進んでいることを示しています。(この作品の中で現実の時間はP73と最終ページ、この作品を作り上げる藤野=藤本タツキのみだと思います)
冒頭に「ルックバック」とタイトルを差し込み「Don't」がその次に来ていることもそれを示しています。
あくまでこの作品のキーワードの一つは「ルックバック(=振り返り)」なのです。
「Don't Look Back In Anger」に囚われたくないからこそ「Don't」をタイトルの後に持ってきているのです。(Don't Look Back In Angerとストレートに読ませたいのなら「Don't」を頭に持ってくる方法はいくらでもある)
もう一つ、ミスリードがあります。
「藤野が想像(=フィクション)の世界で京本を救った」のはP93頃の「京本のお葬式の後」から始まったように見せかけてありますがこれは意図的な仕掛けです。実際のフィクションは、ずっと前のP73の後から始まっています。
ではフィクションはどこまで続くか。
4コマ漫画が時空を超えるインターステラー演出を飛び越え、京本の部屋までです。窓に貼られた4コマ原稿で、藤野がまだマンガ制作を続けていたことを知り、窓に並ぶ原稿が1枚欠けているのを見た藤野が想像し創り上げたのが、「時空を超え京本を助けるifの世界」です。
ただし、もちろん京本は凶刃に倒れて藤野は京本の告別式に出席しています。この想像の世界は、
このシーンは、作家の業の深さが凝縮されています。
親友の死に絶望しながら、それでもそれを題材に創作し、それが自分自身を救済する。ここが、ワンハリを作ったタランティーノとは決定的に違います。
最初に読んだ時は、ワンハリの様式をなぞっているのだと思いました。
しかしどこかに残る違和感を辿っていくと、「アメリカ人のためエンタメに昇華したタランティーノ」と「自分自身のためエンタメに昇華する藤野(=藤本タツキ)」という違いが浮かび上がります。
そして、現実に戻ったP131で藤野が「ルックバック」した視線の先には「藤野歩」とサインがされた京本の服が。
ここで初めて明かされる「歩」という下の名で直球すぎるくらいに示される、「作家は前に進め、創作し続けろ」というメッセージと、次ページの京本からの問いかけに対する答えとして示される、原稿を読んだ京本の笑顔。
タランティーノと違い、藤本タツキは「誰か一人を喜ばせたい」という自身の創作動機、恐らく原点をここで改めて宣言します。
そして、京本の部屋を出た藤野は一度も振り返ることなく、読者に背中だけを見せ創作の世界へ戻ります。その姿は、このタイトルが想起させる事件へのメッセージとして「(怒りをこめて振り返るのでなく)前へ進み続けよう。作家は創作し続けよう」と背中で語っているようです。
涙を拭き思い出を振り払い、立ち上がり京本の部屋を出る藤野の姿が、「停滞するな」と言っているようです。このラストシーンが、言葉を重ねるのでなく創作することがこの事件へのメッセージであり、その姿(背中)を見てくれ(=ルックバック)ということなのではないでしょうか。
そして、その創造を、作品の力を、エンタメの力を信じているからこその、映画・音楽からの引用でもあったと思っています。
それが、「悲しみから立ち直ろう」「被害者を追悼しよう」「被害者の分まで頑張ろう」なんて押し付けがましいことは決して言えない藤本タツキの、事件へと向き合い続けた末に出した、自分自身への答えであり宣言なのではないかと思います。だから作中の2人が「藤野」「京本」と、藤本タツキ自身の直接すぎるくらいの分身なのだと思います。
以上が、私が抱いた「なぜDon't Look Back In Angerでないといけなかったのか?」への答えであり、「ルックバックである理由」でもあるのではないかと思っています。
ルックバック、凄い作品でした。これが読めて良かった。
終
7月22日追記:隠された、”もう一つのルックバック”
ルックバックには、実はもう一つ重大な仕掛けがあり、これは本作の性格が180度変わってしまうもので、作者:藤本タツキのメッセージも意味合いが変わってきます。
本記事のどこに差し込もうか迷ったまま入れられず、ここに追加で記します。最後に記すのもJOKERオマージュにふさわしいかもしれません。
実は、藤本タツキがもう一つ本作に隠した仕掛けにより読者は「京本が通り魔に殺された」とミスリードさせられてもいるのです。
つまり、もう一つ隠された仕掛けは「京本が通り魔に殺されたのは、藤野のフィクションだった(かもしれない)」というものです。
読み返して確認してほしいのですが、P79~京本の訃報を藤本が知ったと思われるシーンの前、P75~に”わざわざ”フィクション開始のサイン(左右反転描写)が入っています。
なぜ訃報の後でなく、ここに左右反転を入れたのか?
京本の死は、事実だと思われます。
ただし、この箇所にフィクション開始のサインを入れたことで、その死は「京本に必要とされたい藤野のエゴが演出した”悲劇”」であるかもしれないとの疑念が発生するよう意図的に設計されています。
実際の京本はどこにでもある不運で、ある朝心臓麻痺を起こしたのかもしれないし、もしかしたら大学で初めてできた彼氏との旅行中に車に轢かれたのかもしれません。
フィクション開始の直後に、事件を伝えるニュース映像を入れることで、この時点で読者に「通り魔」「大学」「京本」などのイメージを持たせあらかじめ悲劇を予想させ、「死者12名」など週刊誌の記事のカット、そこから京本のお葬式と続くことで読者に「京本は通り魔に殺された」と思い込ませます。
そして、ここから、大学内で犯人が凶器を振り下ろすシーンまでは「予定された悲劇へ向かっていくワンハリの様式」でもあります。
藤本タツキは、ワンハリの様式に巧妙に、JOKER流の嘘(=フィクション)を隠して見せました。
これで、デティールにこだわる藤本タツキが、京本を殺した犯人を「なぜステレオタイプ的な通り魔として描いていたのか」がわかるかと思います。
ステレオタイプな(架空の)犯人像を描き読者を欺くことで、世間が抱く偏見や実際の事件の犯人に対する偏見・思い込みもここで暴いてみせます。
「皆さんが思い描く犯人ってこういうのでしょ?」と。
私は、一流のエンタメや創作は”毒”を内包するものだと思っていますが、これは藤本タツキが本作に隠した”毒”です。
「親友である京本の死を悲劇的に捏造するなんて不謹慎な真似をするのか?」と疑問に思うかもしれませんが、人間は誰しも自分に都合の良いストーリーしか描きません。
好きな異性のピンチを都合よく救って見せる自分、誰でも身に覚えのあるものです。JOKERのアーサー・フレックもそういったシーンが随所にありましたね。(ちなみにJOKERの元ネタは1983年ロバート・デニーロ主演『キング・オブ・コメディ』で、妄想癖の演出はこの映画の方がより濃く参考になるかも)
藤本タツキは藤野を神格化することなく、一人の人間として醜さも描き切りたかったのです。あくまで藤野は藤本タツキ自身ですから。
この藤本タツキが仕込んだ毒によって本作の性格はガラッと変わります。
本記事で「本作は1ページ目から藤野の回想であり、現在の藤野はP73とラストシーンだけ」と述べました。そして京本の悲劇の死すらフィクションであるなら、もはや1ページ目からの回想や京本の存在すら信じられなくなってきてしまいます
この毒により、終盤の「藤野と京本の幸せだったころの回想」ですら嘘ではないかという疑念が沸いてしまいます。これは、完璧なまでに映画JOKERの様式をなぞったオマージュです。
そこに隠されたメッセージは「藤本タツキを、ルックバックを信じるな」、自分を疑え、世間を疑え、ということです。
藤本タツキは間違いなく、本作が絶賛されることを確信していたはずです。
圧倒的な画力、緻密に計算されたストーリー、そして追悼。世間がどれだけこれを好み、熱狂し、褒めたたえる言葉と涙、感動がネット上にあふれるか。誤解を恐れずに言えば、どの要素を足し引きすると大衆の琴線に触れ、感動を呼び、涙を流させられるかまでわかっていたと思います。
そこに藤本タツキは少しだけ毒を隠す。「その感動、全部嘘かもしれないよ?」「僕と彼らと君と、どれが本当でどれがフィクションでどれが嘘なの?」と。
本作は、全コマ全ページ、とんでもなく緻密に計算されています。
おそらく、全てのページとコマを一度バラバラにして、どう繋ぎどこを入れ替え、どのシーンが無くても成立するかを計算しています。
しかし、緻密に計算されたこの毒が本作の”真のメッセージ”ではありません。藤本タツキが提示するのはあくまで、どの切り口にも耐えうる極上のエンターテインメントです。喪失と再生、主人公の成長譚、友情と青春、そしてエンタメの醍醐味「大どんでん返し」のためには作品のメッセージを反転させる毒をも仕込む。
藤本タツキ、身震いするほどのエンターテイナーです。この先、一体どんな作品を世に送り出すのでしょうか。
※実は藤本タツキ先生の作品をこれまで一度も読んだことが無く(完結したらチェーンソーマンを読もうと思っていた)、これを機にちゃんと全部読みます、、
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