ホクレア号のことなんてすっかり忘れてしまっていたのにね
(タイトルを変えました)
もう、辞めて10年近くになるんだけれど、フラを習っていたことがあった。一般的にはフラダンスと呼ばれるけれど、Hulaという言葉は踊りを意味するハワイ語だから、たんにフラと呼ぶほうがいい。
それで、ふと思い出したんだけど、最後のほうに習った曲で『Haleluia』というのがあった。内容はキリストの誕生を讃えるものとなっている。
この曲のレッスンに入ったとき、ちょっと違和感をおぼえた。
1959年にアメリカの50番めの州となったハワイだけれど、それ以前にはネイティブのハワイアンが暮らす島で、古くから自前の神話をもっていた。ポリネシアに起源をもつそれは多神教である。神々が自然に宿るといった自然崇拝のため、フラはもともと奉納踊りであるとともに、文字を持たなかったハワイアンたちにとって、物語や歴史を伝える伝承的な手段だったと言われている。
カメハメハ2世の治世下(1820年頃)において、アメリカから派遣されたプロテスタントの宣教師により文教政策の一端として、ハワイのキリスト教化が進んだ。一方で、古くからの宗教や伝統は迫害といってもいいような扱いを受け、およそ54年ほどの間、フラをはじめとしたハワイの伝統文化のいくつかに禁止令が出されることとなった。その後、禁止が解かれたあとには、フラを宗教儀式的なものではなく、気軽に楽しめる娯楽として発展していく。
宣教師たちからの迫害を受けないように、伝統を変化させてもフラの歴史を残そうとしたのは、ハワイ王国の7代目君主、デイヴィット・カラカウア王だった。それが1874年のことで、華やかな衣装を身に着け欧米の音楽の影響を受けて踊られるフラは、フラ・アウアナと呼ばれた。
それでもしばらくの間は、ハワイ語を話すことや、フラ・カヒコと呼ばれる伝統的なフラは禁じられたままだった。
1898年のハワイ王国の崩壊後、ハワイは保養地や観光地として活気にあふれ、世界的な人気を獲得していく。フラも観光ビジネスの目玉として脚光を浴び、観光客を喜ばせるエンターテインメントのひとつになっていった。
フラ・カヒコが復活を遂げるのは1970年代になって盛り上がった、ハワイアン・ルネッサンス運動のなかのことである。イプヘケなどの瓢箪で作られた打楽器や、詠唱を伴奏とし、神々に捧げられるカヒコは、まさに神事といえる厳かなものだ。
話を戻す。
ハワイ(フラ)はこういった歴史をもっていて、それが頭にあったため、この曲の歌詞に違和感をもったのだった。ただ、この曲のアーティストは、ハワイはもちろん日本でも有名なKuana Torres Kaheleさんだ。うつくしいメロディと歌声のなか踊るのは好きだった。この曲はクリスマスを控えた時期の野外ステージでの披露となった。
フラを習っていた時期というのはこの仕事に就く前だったんだけど、この曲が印象に残っているのをおもうと、妙に交点を感じたりもする。偶然と言われればまあそれまでなんだけど。
その当時はキリスト教に対してとくべつな興味もなかったのに、この曲のレッスンがはじまる前日に浦上天主堂を訪ねたのを思い出した。どうしてだったか、理由は忘れてしまったけれど、けっこうびっくりした。
いくつかレッスンやステージの様子を撮ったビデオが、どこかにとってあったはず、とおもって探してみたんだけれど、この曲のは見つからなかった。まあ過去ということだろう。ただミュージックライブラリにはアーティストによる音源が残っていて、聴いてみると懐かしくおもった。
ちなみに振付はきれいさっぱり記憶から消え去ってしまっている。やっぱりまあ、過去ということなんだろう。
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ところでこの記事を書きながら思い出したんだけれど、ハワイの古代遠洋航海カヌー『Hōkūleʻa』号が長崎に入港したことがあった。場所はというと、いまの職場の真下である。
調べてみたら2007年の5月のことだった。
ホクレア号は、古代ポリネシアで用いられていた木造の航海用カヌーのレプリカで、1970年代後半に作られたらしかった。伝統航海術といって、星や風や波などの自然を頼りに航海をするというものだけど、時代が進むにつれ忘れ去られていたこの航海術を、先に挙げたハワイアン・ルネッサンス運動の一環として進められたプロジェクトのようだ。
船がつくられ実施されたいくつかの航海は、ハワイ・タヒチ間やハワイ・マルケサス諸島間など、主なものでは十数回にわたるようだ。ちなみに1978年のハワイ・タヒチ間の航海では遭難事故が起こっており、サーファーたちの間で伝説的な英雄として知られるエディ・アイカウ氏が亡くなっている。
このいくつかの航海のうち、長崎にも寄港したものは2007年のミクロネシア・日本航海だった。ハワイ島を出港し、マーシャル諸島、ミクロネシア連邦、パラオなどを経由して日本にやってきたのだ。日本での寄港地は沖縄、奄美大島、宇土、野母崎、長崎、福岡、新門司、屋代島、宮島、広島、宇和島、室戸、三浦、横浜と書いてある(Wikipediaより)。
私はたしかひとりで、このホクレア号を見に行ったんだったとおもう。伝統航海術ということは、寄港する日時なんかもちろん正確にはわからない。到着した瞬間に立ち会ったわけではないけれど、停泊してあるホクレア号とその伴走船が夜の海に浮かんでいるのを、ぼんやり眺めていた記憶がある。そしてその場所は、先に書いたように現在の職場のすぐそば(下にマリーナがある)だから、うーん、これも、いまほとんど毎日足を運ぶ場所になっているのをおもうと、なんだかふしぎな気もちになる。
場所といえば、フラのスタジオもこの地区の通りにあった。このあたりは古くからの倉庫街だったのが、ある時期に立ち退きなどで建物もずいぶん取り壊された。スタジオのあったビルは数年前になくなっている。
このあたりにはイベントで使われるスペースがいくつもあり、そのだいたいの場所のステージにも立ったことがある。
生きているとこういう、どこかふしぎなつながりがあるような、ひとすじの流れみたいなものを感じることがときどきある。
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ハワイには1度だけ訪れたことがあった。
フラを習うそれよりも前で、マウイ島で暮らす知人(日本人)を頼りに、敷地内のコテージを借りるかたちで1週間ほど滞在したのだった。空気がのんびりしていて、呼吸がしやすい場所だとおもった。日常のいろんなことが風にとけていくようで、心地がよかった。再訪したいとおもいつつ、気がついたらもう20年近くも経ってしまっている。
滞在中、島に移動遊園地がやってきた。知人の家の女の子(当時7歳)を連れて、一緒にコテージに滞在していた女の子たちと遊んだその移動遊園地に、私はすごく感動してしまった。ジェットコースターのような大型の遊具こそないとはいえ、えっコレ運んできたの? という規模のアトラクションが並び、限られた期間しかやってこない遊園地に、島の人たちはみんな大はしゃぎだった。そのころイベント関係の仕事をしていた私は、遊園地ごと移動するというやり方があるんだ! とびっくりしたのだった。そこにいつでもある遊園地と違って、遊園地まるごとやってくるのを心待ちにする島の人たちのわくわく感というものを間近に見て、桁外れの祭典みたいに感じたのだった。
マウイ島から帰ってきて、当時の上司にこのことを話した。ふだんの仕事をただこなす日々に飽きがきていた私たちは、よく色んな企画を空想してそれをたのしみのひとつとしていた。この移動遊園地みたいなことも、いつかやりたいねなどと言いあっていたのも遠い遠い過去になった。そういえばこの人はホクレア号のイベントに関わっていたはずだ。
まあ、すべてが過去である。
とくにハワイアンミュージックが好きというのでなければ興味はないかもしれないけれど、『Haleluia』のビデオを貼っておく。ちなみに振付は忘れたと書いたけれど、見たところこれがかなり近い。試しに踊ってみたら、目も当てられないありさまだった(しょぼん)。
トップ画像のレイは、紫陽花とカーネーションで作ったもの。