あまりにも自分がブスで死にたいと思う私たちへ

 少なくとも私は自分の顔のせいで何度も後悔した。これは私のただただブスすぎて辛いという顔面への愚痴記事です。


 高校選びは、ブスでも乗り越えられそうだと思い女子校にした。女子校って、男子がいなくて思春期に顔を気にしすぎる必要がないと思ったから。実際学校にいる時は自分の顔を気にせずに楽しく過ごせた。

 でもやっぱり辛かった。可愛くなりたいと思う。おしゃれな服に、顔のせいで抵抗感を感じてしまう。着たいのに、私もインスタのお洒落な女の子たちみたいに着たいのに、でも自分の顔に自信がなさすぎるあまりにお洒落するのだって億劫だし。美しい服には美しい顔がお似合いなんだもん。

 自信がない奴はダメだとか、好きじゃないとか言うけれど、私だって自信を無くしたいわけじゃないし、できることなら自信を持って人と接したい。街を歩きたい。言い訳かもしれない。けれども自分の顔面がその邪魔をして、どうしてもブサイクと思われていると感じる、言われる、だから私は自信がないし自信を、これからも失くしていくんだと思う。


 ブスすぎて、勉強しているときも、私が勉強したところで、良い大学に行ったところで、良い企業に就職できたところで結局は顔だし、可愛い子が圧倒的優勝なこの世界で、学歴が、収入が、地位が、何の役に立つんだろうか、と思う。男女格差が云々よりも女であることの1番の辛さはこれじゃないか。誰のせいでもない、ただ自分がブスだから、可愛くなりたいからこそ思うこの劣等感。だったら努力しろ整形しろ、そうすれば良いんだろうけれど整形すれば整形だ、ときには整形であることを探ってまで顔を直していることを突き止めようとする、迷路みたいな世の中で、どうして私はこんなにブスなのだろう。どうして私は認められないのだろう。認められないのは、自信がないのは、私が、私自身がブスであることを嫌って可愛いを願うから。知ってる。

 美人が優遇されるのはダメだとか、顔で差別するのはダメだとかいうけれど、人間の本能だと思う。私たち人間がこの地に生まれて唯一変わらなかったのは「美」への果てしない追求、欲求だろう。目まぐるしく科学技術が発展して、「発展する」がある中で、「美」への欲求を誰が何時忘れたというのだろう。昔も今も「美」に対する欲求は変わらず、そして私たちの本能のはず。本能に逆らえなんて理性の奥で本能がある限り、目に見える、この、容姿に対する「美」への欲求を、誰がやめることができよう。理性では分かっていてもその奥に本能があるのだから、「考える」はやめることができても、「思う」はどうしようもなくやってしまうんだよ。そうとにかく容姿を言い訳にするのはそういう自分のせいなんだと思う。自分でもわかる。

 可愛い子はいいなと思う。確かに可愛い子は大変ってことも知ってる。ストーカーに遭いやすいかも知れないし、勝手に好意を抱かれて面倒臭いアプローチにも丁寧に断らないといけない。そんな悩みがあるかもしれない。でも、可愛い子にはみんな優しい。だって可愛いだけで第一印象は「可愛い」んだから。私たちブスがこれでもかと努力してきた好印象訓練も可愛い子たちの顔面には負けてしまうんだから。もしくは同じか......
少なくともブスがしないといけない努力はしなくて"も"いい。整形だってしなくて"も"いい。
可愛い子が性格悪いなんて全然ない。むしろ私が出会った可愛い子はみんな性格が良かった。だってそりゃそう。ずっとチヤホヤされて可愛いって言われて捻くれる道がないもん。みんな真っ直ぐだし、それも含めて可愛い。だから自信もあるし、性格も輝いてみえる。顔面が可愛い子はだいたい全てが可愛い。愛おしい。
ブスなんて、ブスなんて何やってもブスだし。自覚してるから余計に辛いし、相手にも申し訳ないとか思う。
 世の中不公平なのはわかるけれど、それでも私は可愛い子になりたい。不公平だからこそ美の概念も、醜の概念もあるんだから。美は、承認欲求を満たす一番手っ取り早い、一番確かな幻想じゃないか。私はその幻想に浸りたい。

 別にポジティブを求めてるわけじゃない。共感してほしくて......「そんなこと考えてたって変わらないものは変わらないし、無理なものは無理だから。だから仕方ないじゃん。」 分かるけど、でも諦められない。諦めてるけど。可愛くなりたいって思っているけれど、どうしても限界がある、知ってる。だけど私は共感されたいし、もしも叶うなら、可愛い顔で、可愛いと言われたい。

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