1.生平
【訳】
楼英(1332-1400)は、字を全善、公爽と称し、また全齋と号した、蕭山楼塔村の人である。
父の楼泳は文章を書くのが巧みで、多くの書藉を所蔵しており、これにより多くの本を読む事が出来た。
青年時期にはよく『周易』のことを話し、後にまた『内経』および前賢の名著を深く研究しながら、開業し患者をみていた。
【訳】
明の洪武の時代、人づてに推薦されて、南京にて治病にあたり、その治療成績がとてもよく有名となり、明の太祖(朱元璋)は引き留めて太医院医官に就任させようとしたようだが、彼は年をとっていたために暇乞いした。
2.『医学綱目』の編纂
【訳】
長期に渡る研究と実践の中で、楼英は医学書藉の分類が妥当性を欠くことを鑑みて、30年をかけて、明以前の医学経験をまとめて、人体の内臓によって分類し、『医学綱目』、『内経運気類注』及び『仙岩文集』等を著したが、中でも『医学綱目』40巻の影響は最も大きかった。
【訳】
「医学綱目」が完成した後、次から次へと人の手に渡り転写され、医を学ぶにあたっての必修科目とみなされた。
明の嘉靖44年(1565)に…出版され世に問われてから後は、「叙述が最も秩序立っている医学の類書である」と称賛された。
【訳】
『医学綱目』は金元時代より前の中医典籍を、大いに収集しまとめたものである。
古くは『素問』『霊枢』から、下っては丹渓に至るまで、筆記(エッセイ)にまで及んでいる。
【訳】
楼氏は、この時より以前では、張仲景は外感の表裏陰陽を詳しく説明し、朱丹渓は内傷での気血の虚実について熟知しており、李東垣は中気(胃気)を守り助け、劉河間(劉完素)は古い(陳旧)ものを押し出して、新しいものをもたらし、銭氏(銭乙・小児薬証)は臓腑を明らかにし、張戴人(張従正)は三法(汗・吐・下)に習熟して施し、各々に長所がある、と考えた。
そこで、血のにじむような努力を重ねる事によって、綱領となるもの(部門別)をあげて互いに並べたてた。
【訳】
本全体を陰陽臓腑、肝胆、心小腸、脾胃、肺大腸、腎膀胱、傷寒、婦人、小児、運気の十部に分け、「それぞれの部門に対して、病証、治法、方薬と区別し、治法ではすべて正門を主とし、支門を輔とする。
たとえば心痛を正門とし、卒心痛等を支門とする。
すべて門は上下に分かれ、上はすべて『内経』の原法であり、下は後賢の続法、諸家の異同(ちがい)・得失(長所短所)を記して、一つの基本となる事から同類のものに推し広め、掌の中のものを指し示すように明らかで、実に医学類書中の最も法度(法式・スタイル)のあるものである」(見『中国医学大成総目堤要』)。
2-1.『医学綱目』の評価
【訳】
近代の賈得道氏の批評では、「本書(医学綱目)の最大の特徴は、要点をはっきりと示し、順序が整然としていることである。彼は各種の疾病を、すべて臓腑によって五つに分ける方法は、
『千金方』と比べ大きく進歩し、その中の一部が……検討が必要な以外は、その他のほぼすべてが比較的に合理的である。これらはすべて楼氏が苦心し深く研究したことと、高度な要約力を備えていた結果である。」
この評価は比較的(かなり)公平で妥当である。
3.学術思想|陰陽と八綱弁証を重視
【訳】
陰陽を重視し 八綱に着目した
陰・陽・表・裏・寒・熱・虚・実の八つは、部位を分け、性質を弁じ、虚実を審らかにし、一貫して弁証の総綱とみなされたため、「八綱弁証」と呼ばれた。
【訳】
しかし、「八綱」という言葉は、いつから始まったのだろうか?
ある人は張介賓が端緒を開いたといい、ある人は程鐘齢からはじまったという。
異なる意見が入り乱れており、見解を決められないでいる。
【訳】
『医学綱目』に従うと、「故に病を診る者は、必ず先ず気血・表裏・上下・臓腑の分を分別し、以て病を受くるの所在を知り、
次いで病む所の虚実寒熱の邪を察して、以て之を治す。務めは在陰陽偏傾せず、臓腑勝負せず、補瀉宜しきに随い、其の病む所に適(かな)うに在り」という論点について、楼英が八綱弁証に先鞭をつけたのは事実である。
【訳】
(巻2にある)「諸脈診病雑法」で述べられている浮・沈・遅・数・虚・実・洪・細・滑・渋・等の脈象では、亦た「八綱」を用いて統率し、疾病診断の綱領としている。
例えば「指す所の陰陽・表裏・寒熱・血虚気実の病なる者は、皆な診病の大綱なり。学者、常に須らく此れを識るべし。誤らしむること勿れ……。如し、診て脈浮を得れば、大綱は表を主(つかさど)り、脈沈(を得れば)、大綱は裏を主る……。」
その他は、例えば風、気、熱、痛、嘔、脹、痞、喘、厥で、脈に浮の象があれば、まとめて表証に属すると考える。
痛、咳、喘、満で、脈に緊の象をあらわすならば、みな寒証とする、等等である。
【訳】
内傷・外感・婦・幼・鍼灸の各科の臨床治療においても、例外なく「八綱」弁証で始終一貫している。
これにより、楼英は『傷寒論』の後の「八綱」弁証をついで、基礎を定めた人の一人である、と筆者は考える。
4.学問は疑問を貴び 以前の謬りを証明
【訳】
学問は疑問を貴び あえて以前の謬りを証明した
楼英は読書し、旧い考えをあらため、新しい考えを求め、大胆に疑問をとくことを主張した。
例えば、滑寿の『十四経発揮』の注にある「経脈は曲となし、絡脈は直となす」、「経は栄気となし、絡は衛気となす」の一節について、これは「初学者を惑わす」と説いた。
【訳】
滑寿は「手の太陰(肺経)の脈、其の支(脈)は腕の後ろより次指の端に出で、手の陽明(大腸経の脈)と交わる者は、手の太陰(肺経脈)の絡となす。
手の陽明(大腸経)の脈、其の支(脈)は欠盆より上りて口鼻を挟み、足の陽明(胃経の脈)と交わる者は、手の陽明(大腸経脈)の絡となす。」と言う。
楼英の考えでは、およそ十二経の支脈で、分肉(の間)に伏行する者を、みな絡脈であると解釈することは、『内経』にある「経脈十二は、分肉の間に伏行して見えず、諸脈の浮きて常に見るる者は、皆な絡脈なり」という主旨に反する。
【訳】
『発揮』では「気行くこと一万三千五百息、脈行くこと八百十丈にして、適(たま)たま寅時に当たって、復た手太陰に会す」というのは、『内経』に「衛は上焦に出で、常に栄と俱にし、昼は陽を行くこと二十五周、夜は陰を行くこと二十五周、故に平旦に至って五十周、復た栄気と手太陰に大会す、と。此れ衛気と栄気と相会するを言い、未だ嘗て宗気に及ばず。」
これも経の主皆に反しており、そのために、痛恨極まりなく「経義に乖離して誤っている」と批判している。
【訳】
あわせて『素問』(至真要大論)の「病機十九条」は察病の要旨であると考え、「有る者は之を求め、無き者は之を求め、盛んなる者は之を責め、虚する者は之を責む」の十六字は、すなわち要旨の中の要旨であるが、しかし劉河間の『原病式』(素問玄機)が「病の化するを以て有る者は盛と為し、無き者は虚と為す、而して復た其の仮なる者、虚なる者を究めざる」のは、実に総合性を欠いていて、「猶お、舟有りて舟を操るの工無く、兵有りて兵を将いるの師無きがごとし。未だ智者の一失を免れず。」
5.弁証を自由自在に用いた
【訳】
弁証を自由に操り 臨機応変に対応してとらわれがない
楼英の弁証では、臓腑による分類をして、病機を論じることを重視している。
例えば、咳嗽では痰の滑渋を見分け、癃閉では弁病の暴久(急性か慢性か)を見分け、小腹痛脹では気壅と血瘀を見分け、腰痛では寒、湿、燥、寒湿雑合、風寒雑至の五者に分け、総じて臓腑の気機と六気の病機に着眼している。
【訳】
論治の上にあって、「細かに脈証を燭して」(自序に「各能洞燭脈証」とあり)と「同病異法」(同じ病で異なる方法を用いること)という立場に立ち、その薬剤の処方の仕方は、これを立証できる理論に遡り、これを信頼できるまで実践でたしかめる。
【訳】
治療の例として(巻22)、長兄(0歳)が九月に滞下となり、毎夜五十回余り行き、嘔逆し、食も下らず、五六日後には加えて呃逆したが、丁香一粒を与え、これを口に含むと立ちどころに止んだ。
しかし、しばらくすると復たび発症し、そこで黄連瀉心湯加竹筎を用いてこれを飲ませた。
呃は少し止まったが滞下は未だに安らかにならず、ずるずると癒えずに長引いた。
また空腹時に米殻をほんの少し与えると、帯下の滑らかだったものが渋るようになった。
昼間には参朮陳皮の類を用いてその虚を補った。ついには、頑固な瀉痢としゃっくりを治癒させることができた。
【訳】
また一人の男性の夢精症患者では、(巻29)「先ず沈香和中丸を用いて大いに之を下し、次いで加減八珍湯呑滋腎丸百粒を用い」、証が好転したのを見た。
わずかでも蛤粉等の渋薬を用いると、「遺精と白濁が反えって甚だしくなるか、或いは一夜に二度失精する。そこで改めて導赤散大剤を用いて湯に煎じてこれを服させれば、遺濁は皆な止む。」
よって夢遺は鬱滞に属するものが大半を占めるとみなし、「庸医は其の鬱を知らず、但だ竜骨牡蠣等の固渋剤を用いて固脱するのみ。殊に知らず、癒(いよ)いよ渋し愈いよ鬱し、其の病い反って甚しくなるを」。
【訳】
喘病については発作時に痰は無く、治りかけの時に痰を吐く者は、是れを「痰路」の閉塞とみなし、宜しく桔梗の類を用いて開き、并びに枳殻・瓜蔞実・杏仁・蘇葉・前胡等をもって痰を外に引き出だし、痰が(排)出され喘が退ぞくのを候い、再び其の虚実を調えるべきである。
虚する者は参・芪・帰・朮を用いて補い、実する者は沈香●痰丸の類を用いて瀉す。
老年の痿厥証については、幾日も重ねて虎潜丸を用いて癒えない者にも、軽々しくは処方を変えず、ただもともとの処方である虎潜丸に附子の一味を加えて、反ってこれをたすけるようにする。
これが本当に薬の肝要なところであり、(そうすれば)太鼓をバチで叩くように呼応する。(すばやく反応があらわれる)
【訳】
古人いわく、「病に常の形無く、医に常の方無く、薬に常の品無し。順逆進退は、其の時に在り、神聖工巧は、其の人に在り、君臣佐使は、其の用に在り」と。
神聖工巧に達するために大切なことは、学問と経験がともに優れていなければならないのである。
まことに楼英が言うように、「夫れ、医の貴きは才に有り、才無くんば何ぞ変の究り無きに応ずるに足らん」のである。
6.書誌情報
周明堂『楼英与≪医学綱目≫』1986年 淅江中医学院学報 掲載