クリーピー 偽りの隣人の話(ネタバレ注意!)
下腹部が熱い。昨日友達と3人で見た「クリーピー 偽りの隣人」がボディブローのようにじわじわと効いている。今でも思い出すと内臓はムカムカビクビクするし、見終わった直後は臓腑の痛みを感じた。見終わった後3人で多少話ができたのは幸運だったのだろう、と思う。(その後口直しにと話題に上がり劇場版 仮面ライダーOver Quartzerを初見で見れた事も。)
コレを一人で見て、自分の中で反芻するしかない人達、恋人と適当に映画館で選んだ人達などの心中は察するにいたたまれない。後者は多少自己責任な感じはするがそれでも同情はする。当時そんな話をした。
これから書くもので自分と一緒に見た人達の気持ちが少しでも和らげば良いなと思う。
あらすじ
話としては主人公・高倉が刑事を辞めるに至った一つの失敗から始まり、前半のご近所付き合いパートと、犯人・西野の悪意が表に出始める後半パートに分けられる。
前半が特に重要になっており、後半を見れば前半のそれらが遅れて効いてくる作りになっている。その中でも
・変な隣人西野
「あの人、お父さんじゃありません。全然知らない人です。」
・6年前に起きた事件の謎
の2つが主だったもので、この中で描かれるもう一つの重要なものが、
・主人公の真実に対する執念とこの気質により起きた高倉家の歪みと過去
この高倉家の歪みの描写と、変な隣人西野がこの間に何をしていたかについてはもう一度見返したら発見が多いだろうなと思う。ただ、もう一度見たい気持ちにはさせない重さと痛みを伴う作品でもある。
後半を一度見て全体を俯瞰できる立場で序盤の描写を思い返すと
・高倉夫婦の仲は捜査一課だった時に仕事ばかりで顧みず一度壊れていた
そうした過去をやり直そうと始めた新しい生活が冒頭にて描かれていた。そうとは知らずに見るとお互いを尊重しようとする仲睦まじい夫婦にも見えるのがミスリードになっている。
冒頭、奥さんが引っ越しの挨拶で隣人に手作りチョコレートを贈ろうとする。当初はとても不自然に見えるのだが、二人の過去の生活が透けるにつれ思い返すとそうは思えない。孤独を抱えていた彼女。ただでさえ面倒くさい引っ越しの段取りと並行して作った手作りのチョコレート。彼女はこのチョコレートにどれだけの期待を込めていたのか、また、捨てる事になった時の悲哀を思うといたたまれない。
・出会って数日の西野の態度の変化は盗聴器を使っている
自分は後半に受信機のようなものを見て初めて気づいた。だが、
「お隣の西野さんね、感じ悪い人だった。」
「感じ悪くてすいませんでした。」
という食卓での会話と、
その翌日の西野の奥さんへのセリフの段階で気づくべきだった。
この事は自分の家族と感想会をして教えてもらった。
・「奥さん、またウチ(家/打ち)に来てくださいよ。」という台詞
西野は依存性のある薬物という飴を使ったマインドコントロールをしていた。それが明らかになった後には別の聞こえ方をする序盤の1シーン。思えばこの時には既におかしかった。
・高倉の心理も感情も分かるが感情は真実の前には蔑ろにしがちといった歪み
高倉は投げかけられた言葉への返答が早く、食い気味であった。映画の冒頭においては本作の会話はテンポが良いなと思わされたが、徐々に高倉の気質によるものだと思わされた。自身の予測への自負は確実にあり、他者を下に見る気持ちもあるかもしれない。下に見ているかどうか可能性でしかないが、この事は西野が奥さんに付け入る隙を与える一因になっていると徐々に思わされた。
これは自分自身もやりがちな事でもある。元はと言えば家族など、阿と言えば吽ができる勝手知ったる相手にしていた事が気づいたら癖になっていた。他者を下に見ているつもりはなくとも本人が軽く見られていると気分を害してしまうかもしれないのであればすべきではないし反省すべきだと思う。
全体を通した話の見せ方は視聴者に委ねた部分が多い。行間を読む事を要求されている感じがする。変としか言いようがない隣人、西野との会話の掴みどころのなさがそうさせる最たる例だが、主人公である高倉夫妻の会話も含め作品内の会話が端的だったり引っかかりを覚える台詞が視聴者をそういう見方に誘導させようという意図を感じた。
西野が犯人である事は文脈からほぼ疑いようがないのでどうやって?や動機を考えながら見る事になり、どうやって?の部分は行間に含まれ、主だって補完されないスタンスが割と早いうちから示される(と自分は受け取れた)ので主に動機の部分を考えながら見た。
そうすると視聴者は西野の精神分析をする高倉と近い立場で見る事になる。
ただ、この作品、主人公の高倉にも違和感が徐々に生じていくようになっている。考えすぎかもしれないが、高倉もサイコパス的な精神を持っていると確信した時
高倉と近い立場で「西野がしているであろう最悪な可能性を想像して観る視聴者」が気づいた時には「もしかしたら西野/高倉と同じくサイコパスである素養あり。」と自分自身で思うような構成になってるのかもしれないと思った。
平穏な生活がこうも簡単に崩れうるのか、自分が西野にならないと言いきれるのか。自分は変なところが全くない人間と言えるのか。奥さんも普通の人かと言うとそうではないところが描かれていて、余計に「完全に普通の人なんていない。」のではないか。「普通ってなんだ?」と思わされる。逃げ道のない不安の堂々巡りに陥った。
締めに入る前に話しておきたい印象的なシーンが2つあった。
ナッツをミキサーにかけるシーン。
この作品の雰囲気を抽象的に示したシーンなんじゃないかなーと自分は感じた。これまで漂っていた不潔さやエロチックさが感じられない乾いた空気がここから粘度を帯び始める。この展開とナッツという固形のままだと外見もよくサラッとしているのにミキサーという外因(西野)にかかる事で油分が出て粘性が出るものに対比を感じた。
「人間そう簡単に変われないよ。」「そうね。」
ミキサーのシーンから連続した前半パートと後半パートの切り替わりのシーン。西野により変わりつつある妻と、変われない夫。ここの妻の顔を正面から映した絵が凄みがあって、ものすごく印象的だった。次のシーンから最悪のネタばらしが始まる。
ラストシーンでは高倉の手により西野は殺される。だが、それも手のひらの上とでも言いたげな笑みを西野の亡骸は浮かべていた。確かに、この先高倉が妻を守るためには西野の悪事を白日の下に曝け出さない可能性も十分に考えられる。法律が何の役に立とうか。西野が法で裁かれない事を行動規範の一つとしていたことを思うと実質的な敗北であり、最後まで重たく、イヤーな気持ちで見た映画だった。
ただ、不快さもここまで突き抜けると良いものなんだろうなと思いたい。評価が分かれるだろうなとも思う。その理由にはどうしても現実の凄惨な事件がモチーフになっており、この映画ではHowの部分には大分ボかしが入っていたり、荒唐無稽に感じる手段が見られる。模倣犯が出ないように等々を思えば真似しようがないように作ったとも取れるし、ここのリアリティに比重を置けば置いただけ社会的なメッセージ性が前に出てしまう。インタビューで監督が言うには意図的に最後の方はファンタジーとも取れるものにしたらしい。自分はこの点をとても好ましく思っているがその結果ツッコミどころとも取れる隙を生んでしまった。ただ、この隙を埋める事は主題のブレにも繋がる可能性があると思う。
自分自身との折り合いや家族/友人関係がうまくいっているとしても一瞬で崩れる可能性なんてものは常に、ちょっとしたもので起きうる。そう思って人と付き合っていきたいな、と気持ちを改めた。
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