水平線へ

 友人を乗せた小さなボートが沖に出て見えなくなってしばらくが経った。太陽が僕の背後から海を照らし、波をきらきらと輝かせている。
「どう、快調?」
 僕は堤防に坐って足をぶらぶらと海に投げ出しながら電話で友人と話している。
「快調快調、まったく問題なし、波も高くない」
 電話からはギコギコとボートがきしむ音が幽かに聴こえる。堤防に波が当たって、引く、当たって、引く。それがくり返されている。亀の手がめちゃくちゃに群生していて気持ち悪い。
「きれいにしたボートの乗り心地はいかが?」
「気分はいいね」
 小さな船底には藻屑や亀の手などがたくさんついていた。それを僕たちはホースから勢いよく出した水と亀の子たわしで洗った。
「結局ボートの名前決まらなかったね」
「そうだな」
 きれいにしたボートには淡い青色のペンキを塗った。船側に名前を書いてやろうと僕たちは思っていたのだが、どうもしっくりくる船名が思い浮かばなかった。
 ぴゃあぴゃあ、と鳥が鳴いている。
「沖には鳥いるの?」
 僕も友人も沖に出たことはなかった。
「うーん、たまに見かけるかな。あとは、海面がぱしゃぱしゃしてるところにたくさん集まってる。たぶんイワシかなにかを食べてるんだろうな」
「へえ!」
 電話から風を切る音とともに、鳥のたくさん鳴く声が聴こえてきた。
「ほんとにそれ以外はなにもないよ。すぐそばにこんなところがあったなんてな」
「そうだね」
 僕はいま地上にいて堤防に坐っている。目の前の海は揺れているけど、僕の場所はまったく微動だにしていない。けれど、友人の乗る小さなボートは不確かで、ぐらぐらしていて、海と一緒に揺れているのだ。
「どういう気持ち?」
「最高だよ。存在が逆説的に肯定されるね」
 友人はそんなよくわからない言い回しを好んだ。
「それって結局どういうことなの」
「俺は独りだってことさ」
「ふうん」
 結局僕は友人の気持ちを理解してやることができなかった。だから僕はこうやって友人の行いを手伝ってやることくらいしかできなかったのだ。
「電話、どれくらいで届かなくなるかな」
「どうかな。たぶんそろそろだと思うけど」
 だが、その会話から一時間以上はどうでもいい話をしていた。
 消しゴムを落としたときに、たまたま後ろの女の子のパンツが見えてしまってすごくドキドキした。また見たいからわざと消しゴムを落とすけど、そのたびに後ろの女の子が拾ってくれた。はい、と笑顔で渡してくれる女の子に僕は複雑な気持ちになった。とか。
 最近膨らんできた女子の胸がたまたまシャツの隙間から見えてしまって、どうしてスポーツブラをつけていないんだ、っていう間違った方向でもやもやした。とか。
 俺をよくからかってたYちゃんのこと、うっとうしいと思ってたけど、それはじつは好きと同じような気持ちなのかもしれない。とか。
 けれどそんなことで異性を意識してしまうっていうのは、どうしようもなく人間の頭の作りの脆さを理解できてしまって辛い。とか。
 太陽が真上にある。じりじりと肌が焼けている。海の上は暑いのだろうか、それとも涼しいのだろうか。
「ボートの名前、決めなくてよかったよ。それじゃあ」
 と友人は唐突に言った。電話が切れた。
 友人はなぜ電波が届かなくなる範囲がわかったのだろう。僕は不思議に思った。もしかして友人が切ったのかもしれない。
 すぐにかけ直してみるが、おかけになった電話は電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないためかかりません、とアナウンスが聴こえてきたので、結局どっちなのかわからなかった。しかしどっちでも同じことだった。
 僕は友人が消えていった沖をぼうっと眺めた。
 遠く海が途切れるところに、きれいに一本の白い線が引かれている。友人はその向こうにいる。大きな海の上で友人は死んだ。

小魔術