小野寺初太郎を私たちは知らない
147年前の西南戦争、岩手県九戸村出身で唯一の戦没者
【小野寺初太郎を追って 上】
今から147年前の9月24日は、1877年(明治10年)にあった日本最大・最後の内戦「西南戦争」の戦闘が鹿児島で終結した日にあたります。そしてその1カ月前の明治10年8月18日、岩手県九戸村※出身の一人の若者が、現在の宮崎県美郷町で息絶えました。彼はその西南戦争に官軍兵士として出征。4カ月余の行軍の末、戦地の野戦病院で亡くなったのでした。享年21。わかっている限り九戸村出身者で唯一の西南戦争戦没者です。しかしその死は十分に記録されることも記憶されることもなかったのでした。
※明治9年・10年当時、九戸村は一つで「伊保内村」という名称でした。その後、江刺家・伊保内・戸田の3村に分かれます。
村発行の本に1行の記録
彼の名前は「小野寺初太郎」といいます。
太平洋戦争の戦後50年にあたる1995年に九戸村が発行した本「九戸村出身兵士の戦争体験記」の「戦没者名簿」に彼が1行だけ載っています。
「戦地で病死」ですから死亡は明治11年ではなく10年です。
初太郎の墓は、宮崎県日向市にある「西南の役 細島官軍墓地」にありました=冒頭写真。明治11年春に陸軍省によって整備されたものです。墓碑にも死亡は「明治十年八月十八日」と刻まれています。この戦争で九戸村出身者で亡くなったのは初太郎のみです。
安政2年11月21日は西暦1855年12月29日。徴兵されたのが明治9年(1876年)3月8日ですから、初太郎は20歳2カ月ほどで徴兵されたことになります。
徴兵1年で戦地へ
徴兵は3年とされていました。初太郎は宮城県仙台市に置かれていた仙台鎮台歩兵第4連隊に入れられました。1年もしない明治10年2月、鹿児島で西郷隆盛率いる薩軍が熊本に兵を進め、それに対し政府が征討の詔を発したことで西南戦争が始まりました。
仙台鎮台に出征の命令があったのが3月20日です。当時の出征はほとんど手続きがなく、初太郎たちは翌21日には塩釜から船で出発。神戸・大阪を経由して4月6日、熊本の宇土半島に上陸しました。
すぐに激戦の中に
出征命令があった3月20日は、最も激しかった「田原坂(たばるざか)の戦い」を官軍が制した日にあたります。
これは、薩軍に囲まれ熊本城に籠城している熊本鎮台を救うために福岡から南下した官軍と、それを阻止しようとする薩軍が熊本城の北18キロで激突した戦いです。官軍が仮に突破しても薩軍はまだまだおり、簡単に熊本城までたどりつけません。そこで熊本城の南側からも部隊を送りこんで薩軍を挟み撃ちにしようとしました。仙台鎮台への命令はその作戦の一環です。
初太郎たちが上陸した4月6日は、熊本鎮台の熊本城籠城から50日ほど経ったあたりです。あせる官軍は一刻も早く熊本城にたどり着きたい。一方の薩軍は態勢を立て直すべくさらなる軍勢を鹿児島から送り込んできていました。
初太郎たちは熊本城の南の八代で薩軍の北上を抑える戦闘に従事しました。21歳の初太郎青年は、徴兵1年で生まれて初めての戦闘、それも激戦に投げ込まれたのです。
仙台鎮台からの部隊が上陸した約10日後、官軍は無事熊本城にたどり着きました。その後も熊本各地で薩軍は敗れ熊本から撤退、主力は険しい九州山地を南東に転進していきます。そして初太郎たちもそれを追い九州山地の奥深くへと進んで進んでいきました。
港を望む官軍墓地、墓碑ひっそりと
初太郎の墓のある宮崎県日向市「西南の役 細島官軍墓地」は地図の右上から3番目の丸のところです。細島港を北に望む高台にあり、300以上の官軍兵士らがひっそりと埋葬されています。
初太郎の墓碑には以下の文言が刻まれています。
「鬼神野村病院」とは現在の宮崎県美郷町にある万鷲寺のことです。当時ここが野戦病院になっていました。地図では墓地の左側にある「8/18死亡」の丸のところです。
100日は山中行軍
初太郎が亡くなったのは8月18日。4月6日の上陸から135日目にあたります。
初太郎たちの部隊の戦いは、最初の1カ月こそ八代を中心とした平地でのものでした。しかしそこから先の100日は人吉、小林まで南下し、そこから山中を北上するという、九州山地の険しいところをV字型に進軍するものになりました。
地図に日付と「死者」とあるのは仙台鎮台歩兵第4連隊から多くの死傷者が出た場所です。初太郎は少なくとも3カ所での激しい戦いを乗り越えています。
終結1カ月前の死
7月22日の「小川村付近の激戦」は5人が戦死、32人が負傷するなど大きな犠牲を払うものでした。
地図でわかるように、7月11日に小林を落としてから8月18日に亡くなるまでの約40日間は、九州山地の最も急峻なところを北上しながらの戦いでした。そしてそのうちの15日間は雨や濃霧の中の行軍だったのです。
薩軍最後の拠点の延岡も官軍は8月14日に攻略。北の可愛岳(えのだけ)付近で包囲を完成し、18日を総攻撃の日と決め一気に決着させることになっていました(実際には取り逃がし、薩軍の主力は鹿児島に逃げてしまいます)。
その8月18日、仙台鎮台歩兵第4連隊第2大隊は、やはり山中で薩軍の包囲網の一翼を担っていました。しかし、その中に初太郎の姿はありませんでした。
彼はそこからやや離れた鬼神野村病院(包帯所)で、総攻撃のその日、息を引き取ったのでした。そして1カ月後の9月24日、鹿児島の城山の戦いで西南戦争の戦闘は終わりました。
隠れた主役、病気
初太郎の詳しい死因の記録はなく「病死」としかわかりません。
西南戦争では、病死は最初ほとんどありませんでした。しかし戦闘激化による衛生状況悪化に加え、梅雨寒と多雨の中の進軍で下痢を起こす兵士が多数現れました。さらに天然痘や腸チフスが報告されたり9月以降はコレラが大流行しました。
初太郎たちが配属された西南戦争の別働第2旅団は総勢1万7961人でしたが744人が死亡。うち284人が病死でした。
別働第二旅団の記録では「病死者284人は戦死者と負傷後死者の合計460人の6割にあたる多さだが、多くは戦争後の凱旋途中にコレラで死亡した者で、戦闘中の病死は病死者の10分の1」と説明されています。初太郎はその「10分の1」の死にあたります。
21歳の初太郎青年は、数千キロ離れた初めての戦地に突然送られ、地獄のような4カ月を戦い抜いた挙句病気で倒れ、そのまま野戦病院で亡くなりました。妻子の待つ故郷にはついに帰ることなく葬られたのでした。
(連載「中」に続きます)