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名を刻まれぬ死者、岩手県なお21人

田原坂慰霊碑、九戸村と県護国神社で要請を

【小野寺初太郎を追って 下】

この文章は、岩手県九戸村の方向けに書いたレポートを転載したもので(画像は増やしています)、3回連載の最終回です。レポートは9月28日付の岩手日報など九戸村で配られる朝刊各紙に折り込みで配布しました。折り込み広告のイメージでご覧になりたい場合にはこの記事の末尾にデータをアップしています。無料でお読みいただけます。第1回「上」はこちら、第2回「中」はこちらからどうぞ。

147年前の1877年(明治10年)に西南戦争の戦地で病死した岩手県九戸村出身の小野寺初太郎(享年21)。九戸村出身で唯一の戦没者だった彼は、病死であったために陸軍省の判断で靖国神社に祀られることなく、その名簿を原資料とした熊本市・田原坂公園の「西南の役戦没者慰霊之碑」にも名前が載りませんでした。

慰霊碑を管理する熊本市の担当者は名簿に載っていない多くの人がいることはわかっているとしたうえで、慰霊碑に載せる人をどのように線引きするか、これから検討する必要があるとしています。

霊璽簿に54人

盛岡市の岩手護国神社本殿。右隣にあるのが霊璽簿奉安殿=4月22日撮影

岩手県盛岡市にある岩手護国神社。社殿右隣にはこれまで祀った人を記録した霊璽簿の奉安殿があります。さらにその右隣にあるのが「西南役戦没姓名碑」=冒頭写真。明治13年に岩手県出身の西南戦争戦没者を悼んで建てられたものです。

石碑表側に名が刻まれている33人はすべて靖国に合祀されている「戦死者」です。初太郎の名はありません。

岩手護国神社境内に建てられている「西南役戦没姓名碑」=4月22日撮影

しかし岩手護国神社に確認したところ、霊璽簿に載っている西南戦争戦没者は33人ではありません。54人なのです。21人多いのです。

北田親盛、工藤光明、矢羽々祐宣、上岡谷松之、畑山茂吉、吉田卯吉、工藤三藏、後藤寅藏、髙橋大藏、佐藤佐助、齋藤卯三郎、及川源右衛門、細川藤七、若狭金藏、安保市太郎、白井多利之助、南舘三平、岩井兼松、小野寺初太郎、佐々木儀助、浪内金太郎。

靖国に祀られていないこの21人のうち最後の3人、小野寺初太郎、佐々木儀助、浪内金太郎は宮崎県日向市の細島官軍墓地に葬られ墓碑に「病死」と刻まれています。国の都合で靖国には祀られなかった人も、出身地の護国神社には祀られているのです(霊璽簿にしか記載されていないため外からは分かりません)。

西南戦争150年の節目に

熊本市の担当者に聞くと、各地の護国神社に祀られているからといって、即座に田原坂慰霊碑の名簿に載せることにはならないだろうと言います。一定の基準を決めて判断したいということでした。

しかし、護国神社に祀るのも神社独自の判断ではありません。当時の公的な判断を経て行われています。

「全戦没者の慰霊」を掲げた慰霊碑に名を刻むのに、靖国に合祀されず各地の護国神社に祀られている「戦没者」について熊本市がさらに線引きをするのでしょうか。

私は、「九戸村出身兵士の戦争体験記」の発行者として、九戸村が熊本市に対し、「全戦没者の慰霊」の理念に従い初太郎の名も刻んでもらうよう要請していただきたいと思います。さらにその際には岩手護国神社と協力し、県内出身者にはまだ名を刻まれていない人が初太郎を含め21人あることを同時に申し入れていただきたいと思います。

3年後の2027年は西南戦争150年の節目の年です。そこまでに全国から名前が寄せられ、西南戦争の真の姿が見えるようになればいいと思います。

官軍死者7000人?

ところで西南戦争の死者は1万3000人から1万4000人というのが定説です。うち官軍は約7000人とされています。しかしこの数字は病死者を含んでいません。

では抜け落ちた官軍戦没兵士は全部で何人ぐらいいるのでしょうか。半年近く探しましたが、統一的な資料は見つけられませんでした。

ただ、参考になる数字を国会図書館で見つけました。

内外兵事新聞に「5637名」

 明治15年10月15日付「内外兵事新聞」374号です。その中に興味深い記事がありました。短いので全文引用します。

〇明治九年熊本山口ノ両役及ヒ同十一年西南ノ役に於テ戦死或ハ病死セシ陸軍々人軍属中恩給令並ニ同附録概則ノ成規ニ適合セサル者五千六百三十七名ノ遺族ヘ今度特旨ヲ以テ弔慰料トシテ金若干円ツツヲ下賜相成ルト云フ聖恩ノ厚渥ナル洵ニ我々ノ感喜ニ堪ヘサル所ナリ

明治15年10月15日付「内外兵事新聞」374号

西南戦争前年に起きた山口の「萩の乱」、熊本の「神風連の乱」も合わせているとはいえ、約5000人もの人がいるというのです。

この数字は遺族への年金などが認められなかった死者の数ですが、戦死や戦傷死はほぼ間違いなく認められるので、この5000人の多くは病死だと思われます。そして萩の乱も神風連の乱も規模が小さかったため、ほとんどが西南戦争の病死者と考えられるのです。

だとすれば7000人と言われていた官軍の死者は実は1万人を超えており、両軍を合わせると2万人に迫る死者を出した戦争だったということになります。「戦没者1万4000人」は更新される必要があります。

終戦前後、コレラ蔓延で死者多数

ここで問題になるのがコレラによる死者です。中国から長崎を経て西南戦争最終盤に鹿児島にもたらされたコレラは、戦闘終了前後から流行が始まりました。全国から動員された兵士が各地に帰還する時に大量に亡くなり遠隔地ほど影響を受けたのです。

例えば北海道の屯田兵の研究※によると、西南戦争に出征して病死した屯田兵は28人で、うちコレラが20人。その20人はすべて鹿児島を8月21日に発った後、9月以降に大阪・東京・北海道各地の病院で亡くなっています。
※相庭達也「屯田兵と西南戦争:屯田兵の戦没者慰霊と遺族扶助」北方人文研究12号

ではこの人たちは西南戦争の戦没者ではないということになるのでしょうか。そんなことはありません。戦闘中の死ではなくても戦地に動員された中で病気に侵され亡くなった人たちだからです。だからこそこの20人も札幌護国神社に祀られているのです(靖国にももちろん田原坂慰霊碑にも名前はありません)。

私は、田原坂の慰霊碑が今後も「全戦没者の慰霊」を掲げるのであれば、各地の護国神社に祀られている戦病死者も載せるのが当然だと考えます。熊本市がどう判断をするのか注視したいと思います。

九戸村の生まれ故郷に石碑

岩手県九戸村江刺家・長徳寺境内にある英霊碑=8月9日撮影

九戸村の1冊の本にあった1行の記録から始まった「小野寺初太郎」を巡る旅はそろそろ終わりです。

初太郎の名が刻まれている石碑は、細島官軍墓地にある墓碑を除けば、現在あるのは初太郎の生まれ故郷・九戸村江刺家の長徳寺境内にある「英霊碑」のみです。

長徳寺境内にある英霊碑、裏側の戦没者の最初に「小野寺初太郎」が見える=8月9日撮影

そこに刻まれた「西南の役 陸軍 小野寺初太郎」を眺めながら、21歳の青年に降りかかった孤独で過酷な運命にぜひ思いを馳せていただければと思います。そして宮崎に赴く機会がありましたら、ぜひ日向市の細島官軍墓地を訪れることをお勧めします。

(終わり)

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