悲観
さて、「悲観」で辞書を引いてみたわけだが、引用文中②にあるように、何となく「悲観」は「性悪説」と結びつけられがちなところがあると思う。逆に「楽観」は「性善説」と結びつけられがちであろう。
これはWikipediaの「性善説と性悪説」のページにも、そういった記述があるので、割と一般的な言説だと言えると思う。
二元論で単純化できるほど簡単なものではないのは自明だが、いわゆる哲学といったものは大昔からそういったことを行う学問であるので、先人に倣っておく方が都合がいいだろう。
ただ、私は、性善説でもなく性悪説でもなく、告子の「性無善無悪説」を支持している。
つまり「人は生まれながらにして善悪どちらかではなくその中央にあるニュートラルなところから始まり、後天的に善悪の両方ともを身につける」という考え方だ。
当然、哲学以外の分野で取り上げられたりWikipediaで記述される程に「性善説」や「性悪説」は有名なので、それらに比べれば「性無善無悪説」なんてマイナーもいいところである。しかし、私はこれを見つけた時に今まで「性善説」も「性悪説」もしっくりこなかったことに対しての回答だと思ったのを覚えている。
(もっと言えば、これ以外にも「性有善有悪説」やら「性善悪混在説」やら、いろいろと出てくる)
実際に、物事の善悪は生まれてすぐには持ち合わせておらず、それこそ2歳頃になってようやく善悪というものの存在に薄ら気づき始める、というのを我が子の子育てを通じて目の当たりにしている。
では、今の私はどうなのか?
「善」でありながら「悪」でもある気がする。
「楽観」でありながら「悲観」でもある気がする。
前述の通り、後天的に善悪を身に付けたからだ。
もう少し具体性を持たせれば「世の中、成るように成る」と思っていて、これは「楽観」的な見方であるが、「個人の力ではどうにもならないことの方が多い」ともまた思っていて、これは「悲観」的な見方と言えるだろう。
要するに、社会に対しては楽観的姿勢、個人に対しては悲観的姿勢であるというのが正確なところだろうか。
「悲観」について(つまり、「悪」であり「個人」)は、それを改善するという余地や手段が残されていると思う。
それを踏まえて、最終的には良くなる方向にあるということが「楽観」(つまり、「善」であり「社会」)であると言えなくもない。
つまり、私にとっての「楽観」とは「悲観に対して、何らかの手立てをした妥協点」であると言えるかもしれない。そして、それを踏まえて私の思想としては、「個々人の悲観に対する改善により社会が楽観なものになる」ということになる。
しかし、逆接的に「楽観」からは「悲観」は生まれないような気がする。
私にとって「楽観」とは「成るように成る」であり、それは思考停止の状態だからだ。
ということは、個人が「悲観」に感じるということは、「成るように成らなかった」からということなのだろうか?
この辺りの答えは、今のところ明確なものは出てきていない。
それこそ「性悪説」がベースなのであれば解決するかもしれないし、そうでなくても後天的に悪は身につけられるものだから、という説明も成り立つかもしれない。
例えば、個人レベルであれば税金は減ってほしいものではあるが、自分が支払った税金が回りまわって私を含む社会基盤として支えていることなんて分かりきっているので、粛々と納税しているわけだ。
もちろん、マスコミで取り立たされるように、全てが全て、税金が真っ当に社会に還元されているわけではないようなので、完全に思考停止状態の「楽観」でいられるには、少し距離が遠く、「社会」自体も大きいものになっているのだろうが。
視野を広げると、状況はもっと複雑だ。
そこには、「社会」と「社会」が、互いの「善」の名の下に争いを繰り広げていたりする。互いに自らが「善」であり、相手が「悪」として。
さて、そうなると、私が標榜している「社会」と「個人」、「善」と「悪」、「楽観」と「悲観」の構造が崩れ始めてくる。
だけど、「社会」を前にして、私一人の標榜がどうなろうと大したことはない。
そう、これこそが「悲観」だ。
ちなみに、何故「楽観」ではなく「悲観」の方をタイトルにしたのかは、「楽観」に基づくものであることを最後に書き記しておく。