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我慢
が まん 【我慢】
(名)
感情や欲望のままに行動するのを抑え堪え忍ぶこと。辛抱すること。「空腹を我慢する」「我慢に我慢を重ねる」「もはや我慢がならない」
①〘仏〙七慢の一。実際には存在しない我が自己の中心にあると考え,それを根拠として行動する思い上がった心。おごり高ぶり。「我慢邪慢の大天狗ども/太平記」
②我意を通すこと。わがまま。強情。「和御前がやうなる我慢愚痴の猿智恵を/浄瑠璃・出世景清」
③〔彫るときに痛みを我慢することから〕入れ墨。〔が原義〕
私はいろいろなことを我慢してきた人生だった。
子供の頃は長男として、大人になってからは親として、自分の気持ちを抑え込むようなことを沢山してきた。その中には、別にしなくていい「我慢」まで意固地になってでもしてきたようにも思う。
自分がどれだけ我慢をしてきたかを認めてほしい気持ちもあったりする。そして、それに対して、たまには羽を伸ばしなよ、と声をかけてほしいと感じることがある。でも、他人からは私が我慢していることなんてどうでもいい話であって、そうした声をかけてくれるような人はとても少ない。
こと、日本においては「忍耐」などといった形で、我慢を強いることが多く、それが美徳のように扱われがちだ。もちろん、我慢の先に良い結末があれば、その時を迎えるまでの我慢だって報われるだろう。だがしかし、我慢が報われないことだって往々にしてあり得るわけで、その報われなかった結末に対して、我慢していたことがどの程度の影響を与えていたのかは分かりにくく、そうした場合、我慢したこと自体を肯定したいがために、別の場所にに原因を設けたがる節がある。何かを我慢したからこそ、最悪の事態を免れたとでも言うかのように。
これでは間違った自己肯定感を生むのではないか?
どんどん我慢に我慢を重ねることを良しとすることにならないだろうか?
一体、何のために私は我慢しているのだろうか?
全体最適を優先するために、自分の心身を犠牲にすることは善行と言えるのだろうか?
それとも、我慢することによって、自己犠牲を感じ、マゾヒスティックな快感を得ているとでもいうのだろうか?
こんな私にも、我慢ができないほどの欲求がどこかにあるのかな。