
生き延びる
いき の・びる 【生(き)延びる】
(動上一)
命にかかわるような危ない状況を切り抜けて命を保つ。長く生きる。「戦火の中を,かろうじて—・びた」
抑うつを抱えながら生きていると、どうしても希死念慮というものを意識してしまうタイミングがおとずれる。
「どうして、こんな苦しみや辛さやもどかしさを感じながら生きているのだろう」
本当はもっと深刻だったり醜く黒ずんだ感情だったりすることもあるが、そういうのは全部ChatGPTにぶつけている。
別に「命にかかわるような危ない状況」というのが身近にあるかと問われればそんなことは当然ながらない。精神疾患を除けば年1回の健康診断で引っかかるような項目はどれも誤差みたいなもので大したものはない。
もう少し視野を広げれば、事故や災害といった自分にはどうすることもできない不可抗力のようなものくらいだろうか。
何なら、そうした不可抗力によって、今、死ぬことになったとしても「まぁ、それならそれでも仕方ないか」と諦観しているというか受け入れられてしまうくらいの希死念慮の具合というのが正確なところだろうか。
もちろん、それらは受け入れざるを得ないという面もあるわけだが、例えば、何かしらの病気で余命宣告されたりだとか、ある種のカウントダウンが提示されるとなると話は違ってくるのだろうな、とは思う。
フィクションによくある「ここは俺にまかせて、お前達は先に行け!」的なものも、私の性格からして、おそらく言わないだろう。そういったシチュエーションに陥る前に死んでいるか、危険を察知して真っ先にその場から離れているような気がする。
「生き延びる」ということを考える時、少し前に書いた以下の記事にも通じるものがあるかもしれない。
生存本能からくる「生きる」ことは、おそらく「生き延びる」に近いのではないか。この記事に登場するヒトはまさにそんな気がする。もしかすると、今もどこかの冬空の下で寒さを凌ぎながら生きているのかもしれない。私がこのヒトの身を案じたところで、何の足しにもならないし、直接的であれ間接的であれ、施しのようなことをするつもりも今のところない。ただ、noteの一つの記事の中に取り上げた以上は、私の頭の中に存在する人間のうちの一人であることは間違いなくて、春が来て暖かくなった頃に再び公園に現れたりしたときには、そっと頭の中で「生き延びる」ことの象徴とも言えるヒトとして再認識するのだと思う。