遅咲きの恋
静かな室内にページを捲(めく)る音が響く。以前から読書の習慣はあったが、長期入院を契機に頻度は高くなった。退屈を紛らわす為に本は最適であろう。実用書ではなく娯楽本を手に取る事も増えた。束の間ではあるが現実を忘れさせてくれる。昏く涯の無い道を歩んでいる事を……。
事故に巻き込まれ、十年近く昏睡状態だった。その真実は自分の精神を摩耗させていった。思い通り体が動かせない恐怖、ところどころ記憶が抜け落ちている恐怖、己が己でなくなってしまうかもしれない恐怖。心が押し潰されてしまいそうだった。誰彼構わず当たり散らし壊してしまいたいと何度も思った。自分にそんな昏い衝動があるなど怪我をしなければ知らずにいたのかも知れない。孤独と恐怖。それらを持て余していた時、彼女が現れた。
初めて会ったのはたった三歳で、再び再会した時も彼女はまだ十八歳だった。親の背中に心なしか隠れる位置で挨拶してきた小娘。
ベッドで寝ている男の躯を枕に寝てしまった彼女を起こすのが、三度目の再会だった。既に成人を迎えており、髪は後頭部で結える程に長くなっていた。
顔を真っ赤に染めて何度も頭を下げて謝る姿が可愛らしくて、つい声を出して笑ってしまった。そういえばこういう風に愛想笑いを除いて自然と笑ったのは、ずいぶんと久しぶりだ。恐縮して恥じ入る彼女に気にするなと告げる。御世辞でも嘘でもない。彼女の一挙一動に慰められたのだから。
今も、傍らから安らかな寝息が聞こえてくる。あの時と同じように、椅子に腰を下ろして上半身をベッドに預け眠りに落ちている彼女が可愛らしくて笑みが零れた。意識不明になってから十年近く、今もこうして訪れてくると知己から聞いた。今日は早起きをして紅茶にあう菓子を作ってきてくれたのだ。暑くなって鬱陶しくなったのか、短くなった彼女の髪に触れ、柔らかな感触を楽しむ。彼女はどこまでも優しい。きっと自分の孤独を感じ取っているのだろう。それを嬉しく思う反面、生じる昏い感情がある。
先程まで呼んでいた本に視線を戻す。岩屋という牢獄から出る事の叶わぬ山椒魚は、たまたま通りかかった蛙を誘い込んで口内に幽閉してしまう物語。教材として使われる程、文章に込められた意味は深く昏い。小説の結末を反芻し、口角が自然に上がった。ーー嗚呼、哀れで愚かな山椒魚。そして自分も。
「……君が私を許してくれるといいんだけど」
聞こえぬとは知っているからこそ、夢の中にいる女にそう囁いた。