恋人の課題
皐月棗(さつきなつめ)という人間は、美少年というに相応しい美少女である。
透き通るような白い肌、紅を引いたような赤い唇。綺麗に整えられた細い眉、眦の吊り上がったガーネット色の双眸は、長い睫毛に包まれている。なよなよとした嫋やかさとは違う、しなやかな黒猫を連想させる細やかな四肢。
一見冷たげにも見える落ち着いた容姿とは裏腹な、人懐っこくオープンな性格。彼女の仁徳ぶりは学年性別を問わず信頼され、慕われている。艶をたっぷり含んだチョコレート色の髪はショートカットで、TPОが許す限り男子が着る方の制服を着用しているため、知らない人間が見たらただのイケメンである。実際、他校の半分のファンは棗を男だと勘違いしているとかいないとか。
「……あの、千鳥先輩」
普段の棗にしては妙にトーンの低い声(元から高くもないが)が、黒髪オッドアイの少年にかけられた。
「何だよ?」
「……やっぱり男子っていうのは、やはり胸が大きい女子方が好きなんですか?」
「……は?」
誰もが羨む条件を搭載しているかのように見える棗にも、悩みがないわけではなかった。
「どういうことだ?」
ミニゲームの後にベンチでドリンクを飲んでいた千鳥雪彦(ちどりゆきひこ)は、隣で同じく試合を観戦していた棗の唐突な質問に、うっかり間抜けな声を上げてしまった。どこかのガングロ男であるまいし、胸が大きい女が好きなのかと聞かれる理由がわからないし、どう答えていいのかもわからない。雪彦は珍しく反応に困ってしまった。
「だって、しーちゃんは胸が大きいでしょう?」
「え、あ、まーな」
棗の同級生であり、雪彦の恋人である不知火椛(しらぬいもみじ)。彼女はどう見なくてもグラマーだ。サイズはDカップを超える。よくブラジャーが高いだの運動する時に邪魔だと、大きいのも問題があるらしい。
対する棗のバストサイズはギリギリBカップ。ブラジャーの種類に迷わなくていいし、邪魔になることはほとんどない。人気者の棗は、慎しまやかな胸が最大のコンプレックスだったのだ。
「いやあのな……俺はアイツの胸目当てで付き合ってるわけじゃねーから」
「でしょーね。最初からカラダ目当てだってんなら、しーちゃんが『二人きりで部屋にいるのに手を出されないんだ! 私はそんなに魅力がないって事なのか!?』なんて相談してこないですもん」
「な……んだと……!?」
「最近よく相談されるんだ……先輩のお兄さんの恋人さんにはその逆の相談を受けるんですけど(逆によく恋人に発情されて困る)……気を付けた方がいいですよ? あの変態あたりに露見すればややこしいことになりますって」
「そ、そうだな……」
まさかそんな事情まで知られているとは思わなかった雪彦は、容姿に惹かれて付き合っているわけではないと格好いいことを言いきっておきながら、見事なまでに顔を茹でタコ色にして眼をそらした。そして暫らくの沈黙の後、雪彦は逆に聞いてみることにした。棗は他人になかなか弱みを見せない。余程の事情がない限り、こんな事を聞いてくるはずがないだろうと踏んだのだ。
「お前がそういうこと聞いてくるってことは、冬凪先輩になんか言われたのか?」
冬凪樹平(ふゆなぎじゅひょう)。彼女がそういう方面で悩むとしたら、彼女の恋人であり雪彦の先輩にあたる男が起因している可能性が高い。
「別に、あの人になにか言われたからじゃないです」
「だろうな。あの人、お前のことが好きで好きでしょうがねぇみたいだし」
あの溺愛ぶり故に、樹平が棗に不平不満を漏らしたりする確率は極めて低いのは一目瞭然だ。
「……でも……」
「ん?」
「この前先輩の家にお邪魔したんです。そしたら……ベッドの下にそういう本がはみ出していたから、やはり大きい方が良いのかと……」
「……あー」
冬凪先輩、アンタ馬鹿すか。雪彦は内心ツッコミを入れた。
愛しの彼女が家に来るのだったら、見られてはいけないものは絶対に目に入らない所に隠しておくべきだろうに。それでも雪彦の叔母などは部屋を全て漁ろうとするが。そんなのはいわゆる少数派(マイノリティ)で。お気楽だがデリカシーは人並みに所持している棗はそんな下世話な事はしないだろう。ベッドの下だなんて、在り来たりすぎる場所は元より、その迂闊さは同じ男として愚かとしか言い様がなかった。
「それとこれとは関係ないと思うぜ?」
そもそも、そういう雑誌やビデオというものは、関心を集めさせるために大胆なグラマーガールが多い。樹平が好き嫌いに関わらず、世間に流通している数が多いのだから、持っていても全く不思議な事ではないだろう。口で言う好みと心から慕う相手は、案外矛盾する事は少なくないのだ。
「……そーなんですか?」
「そんなもんだぜ。冬凪先輩はお前しか目に入らねーみたいだし……あ、ほら、おっかねー顔してこっち来たぜ」
「えっ」
普段はあんまり意識してないのに、ふとした瞬間に悩みこんでしまう。しっかりしているように見えても、やはり恋する乙女なんだなぁ。雪彦は微笑ましい気持ちで、監督との話が終わって帰ってきたのであろう童顔系美少年(ただし全長一九〇オーバー)を顎で示した。
無表情だが己の恋人が自分以外の男と話しているのが許せないという焼きもちを隠しもせず、先ほど話題に挙がっていた樹平はまっすぐ雪彦と棗の方にやって来て、棗の躰を抱きしめる形で雪彦から引き離した。
「千鳥、俺の女を口説くな」
「口説いてなんかないっすよ」
「樹平せんぱーい、後輩を困らせちゃだめですよ」
「だが」
自信満満、傍若無人の残念系イケメンも、恋人の前でだけは全然態度が違う。自分の胸辺り前にある棗の顔を見る、彼の表情は。彼女にだけ見せる、特別なもの。不安になる必要なんてどこにあるのだろうかと、雪彦はこっそり肩を竦めた。
「冬凪先輩、皐月、俺そろそろ練習に戻るんで」
「あ、わかりました。……すみません、変なことを聞いてしまって」
「気にすんなって」
コートに戻る雪彦の背後では、変な事って何の事だと詰め寄る樹平と、大したコトじゃないですよぉと適当に流している棗の話し声が聞こえてくる。
何だかんだとうまくいっているではないか。本当は惚気られただけなのかもしれないと、雪彦はでかい溜め息をはいた。