「愛されたい」という病。
常に愛されたいと願っている。無条件の愛に満たされたくて仕方がない。
厄介なことに、私のこの欲求には底が無い。これまでの人生で、私を愛してくれる人が誰ひとりいなかったとか、そういう訳ではないのに。
「愛情」という、曖昧で形の無いものに振り回され一喜一憂し、満たされることの無い飢えと癒されることの無い渇きに苦しんでいる。
私にとって「愛されること」は、「自分の価値を実感すること」だった。家族、友人、恋人…。自分以外の誰かの言動に、自分自身の価値を見出す。私は私の存在価値が分からない。誰かに褒めてもらえて初めて、生きている価値が生まれるのだ。
この感覚は、非常に不健全なものだと自覚している。けれど、多かれ少なかれ誰しもこの感覚はあるとも思う。わざわざ嫌われたい人間などいない。少なくとも私は見たことがない。
ただ、私の場合は度を超している。
私にとって、私が価値のある人間でいられるために、愛される必要がある。愛されたい。束の間の安心感を得たい。けれど、少し時間が経つとまた不安になる。
「私のこと好き?」
『大好きだよ』
「かわいい?」
『すごくかわいいよ』
「どこがどんな風に?」
恋人に愛されている証拠が欲しくて、何度も何度も確認する。そもそもこんな私に付き合ってくれていること自体、愛されている証拠なのだと思うのだが、もっと欲しいもっと欲しいと、欲がおさまらない。
これだけならまだしも、『何をしても愛されたい』というわがままかつ迷惑極まりない感情をコントロールできず、相手を試すような言動をしてしまうこともある。本当に申し訳なく思う。
底の無いバケツに水を注ぐような、そんな感覚。どれだけ注がれても足りなくて、だからといって注がれないのは苦しくて、いくら注がれてもまだ欲しくて欲しくて堪らない、そしてそんな自分は卑しいと思う。
それが私にとっての「愛情」だ。
何も恋愛だけではない。家族からの愛情。私の根底にある、もやもやしたものの正体はこれかと思う。
両親の仲は良くなかった。けれど、大人になって冷静に考えてみれば、ありがちな家族という感じに思える。
特別、精神的におかしくなる要因があったかといえば、それはよく分からない。
ただ、私はもっと愛してほしかった。普通に愛して欲しかった。普通がなにかは分からないけれど、食事が用意されていて、家が綺麗に保たれていて、理不尽なことで怒られたりしない、そんな環境が欲しかった。
両親ともに、私のことが憎いわけではなかったと思う。それは分かっている。ただ、一度口に出してしまった言葉というのは、飲み込んで無かったことにはできない。私は、今もその言葉の数々を覚えているし苦しんでいる。
しかし、それでも両親のことは嫌いにはなれない。これが肉親ゆえの難しさだと感じる。
「愛されたい」という、誰もが持っている感覚。顕在的に考えることはなくとも。
しかし、昨今の「愛される」ことへのハードルはどんどん高くなっているような気がしている。
肌は白くなければいけない、二重でなければいけない、もっと痩せなければいけない…
「○○でなければ幸せになれない」
「○○でなければ幸せでは無い」
SNSは今日もそんな話題で溢れかえっている。少なくとも、私にはそう見える。私も、馬鹿馬鹿しいとは思いつつそんな強迫観念に駆られている一人だから。
時々我に返る。それは本当に自分の意思か?そうなりたいと思うのは、そうでありたいと思うのは、私の意思なのか?
そうやって、何度も自問自答しながらでないと自己を保てない、そんな弱い人間が私だ。
何もかもそれほどまでに完璧でなければいけないのだろうか。
「愛される」には、完璧であることが必要なのだろうか。
この世の全員、ただの『ヒト』のくせに。
誰でもいいから教えてほしい。
この寝付けない夜を越える方法を。
この底の無いバケツを、愛情という名の水で満たす方法を。