人間の建設01

コーチング視点の読書感想文~人間の建設 岡潔・小林秀雄~


岡潔さんと小林秀雄さんの対談本『人間の建設』を読みました。

この本は、泉谷閑示さんの著作の中で岡潔さんの言葉が引用されていたので、興味があって手にしたのですが、これが買って大正解の名著でした。

まぁ泉谷さんが引用するくらいの内容なので、当然と言えば当然ですが。

今回の感想は、私のツイッターにもいくつか引用をさせてもらった内容とそれについて思ったことを書いていこうと思います。

『人間の建設』感想~人間とは何から考える~

数学、文学、物理学、仏教、芸術、お酒、教育など多岐に渡る内容について語り合う内容だったけど、その本質は「人間を知る」という点で話が展開されていたと思います。

自分が興味深いと思った点をいくつかご紹介。

知性による説得の無力さ

岡さん「矛盾が無いということを説得するためには、感情が納得してくれなければだめなんで、知性が説得しても無力なんです~中略~人間というものは感情が納得しなければ、ほんとうに納得しないという存在らしいのです」

この一文は、数学の証明において、いくらその証明が論理的に正しいとしても、証明を理解した人が納得する(「何か引っかかる」といったことが無い状態)為には、感情的にも納得する必要があることを、岡さんが自身の数学研究の過程において知り得たことを話しています。

この一文において、深く納得するのは、「知性が説得しても無力なんです」という部分です。

これは考えてみると身の回りにたくさんの例があると思います。

『正しいと分かっているのにできない』、『こうすればもっと良くなるはずなのにやらない』これらは、ロジカルに考えればその通りなのでしょうが、説得する側が相手の感情に訴えられなければ、行動に移れないというものです。

逆に言えば、相手の感情を揺さぶることができれば、ロジカルでもないことに共感して行動するのが人間だということを物語っていると思います。

この視点は、非常に重要で私自身がその点で悩んだことでもあり、逆にそこからが知識を得た後のスタートだと実感しています。

もし、知識を得てそれを実践しているのに、何も変化が無い、相手に対して影響力が出ないという場合は、相手の感情に響いていないことが考えられます。

何が相手にとって響くのか?この視点を持つことの大切さが分かる一文ではないでしょうか?

意義なき前進による自滅

岡さん「感情をもととして、ベドイトゥング(意義)を考えて、その指示するとおりにするのでなければ、正しい学問の方法とは言えないと思っています」「科学が進歩するほど人類の存在が危うくなるという結果が出ることだって、ベドイトゥングについて考え足りないのです」 

これは、感情と共にベドイトゥング(意義)がなく進歩した結果が、核兵器を生んだという話しの一文です。

岡さんと小林さんの対談の中で、世界的に知性のレベルが下がってきているという話題が出てきます。

その事と関連づけての言及はなかったのですが、個人的には意義無く進歩することというのは、目の前の興味だけで進むというもので、言ってしまえば幼児と変わりません。

そうした、幼児のような好奇心があるからこそ発展していくという点もあります。

しかし、意義を保った好奇心であるからこそ、高い知性と呼べるのではないでしょうか?

本来の目的(=意義)を忘れて行動することの警告をこの一文は物語っていると思いました。

ちなみに、ロシアの文豪トルストイも(確か生命論)、ある粉挽きの男の話を通じて当時の科学技術の発展について警鐘を鳴らしていました。

簡単に言えば、粉挽きがよりよく粉を挽く為に、初めは水車で動く粉挽き機自体を研究するのですが、次第にその対象が水車や水車を動かす川に移っていきます。

しかし、肝心の粉を挽くということが忘れられてしまったという例え話しなのですが、手段が目的になってしまったこと、意義を忘れてしまったことを現していました。

行き詰まりを喜ぶMind

岡さん「数学は発見の前に一度行き詰まるのです。行き詰まるから発見するのです」

止揚(アウフヘーベン)という言葉があります。

これは、矛盾するものを更に高い段階で統一し解決すること(googleより引用)を意味します。

私が最近色々な人がゴールを設定し行き詰まりながらも打開していく様を見ていて思ったことが、この言葉に表れています。

自分の体験としても大小様々ですが、何かが成長する前というのは一旦、停滞や後退のような状況に陥ることがありました。

考えてみると、筋トレなどもずっとトレーニングを続けるのではなく、トレーニングの翌日は超回復という目的の為に休みます。

ダイエットでも体重変化が無くなった所で、ようやく身体が適応し次のステップに行くのですが、多くの場合、体重が変わらなくなって辞めてしまいます。

この一文は、天才と言われる岡潔と言えども、一度は行き詰まりを経験するということや、逆に行き詰るからこそ発見ができるという希望ある言葉だなと思いました。

忘れた頃にできている

岡さん「「十九世紀になってポアンカレあたりが、数学上の発見とはこういうものだと書いている、その発見は行き詰まった時に開ける~中略~西洋人は自我が努力しなければ知力は働かないと思っているが、数学上の発見はそうではない。行き詰まって、意識的努力なんかできなくなってから開けるのです」

この一文も、上記と同じなのですが、もう一つ成果を出す極意が書かれていると思います。

それが最後の「意識的努力なんかできなくなってから開けるのです」という部分でしょうか。

上記のように一旦、行き詰まりを経験した後はそのまま努力や根性でもって、知性を使って進もうとしても深みにハマってしまうことがあります。

しかし、岡さんが語るように「意識的努力ができなくなってから開ける」ということを自分なりの実践に置き換えると、行き詰ったら散歩をしたり、趣味を楽しんだりという形で一旦離れると、不思議とアイディアが閃いたりすることになります。

もちろん、その行き詰るという段階に到達することが前提にはなりますが、その先では一旦離れるということも大切なポイントになることが分かります。

後程も出てきますが、岡さんは脳の仕組みにも精通しているのか、意識的に頭を使う方法を展開しています。

この辺りにも日本の今後を考えるという大きく高い視点があるからこそ、注目できたのではないかと思います。

人という存在を精細に描くもの

小林さん「無明の極がトルストイよりもよほど濃いのです。~中略~トルストイには痛烈な後悔というものがあるのですが、ドストエフスキーに言わせれば、自分の苦痛は、とても後悔なんかで片付く簡単な代物ではないと言うかも知れません」

対談の中では、ピカソやゴッホと言った画家や、ドストエフスキーやトルストイなどロシア文学の雄達の話題が出てきます。

私が、印象に残ったのはドストエフスキーとトルストイについてです。特にドストエフスキー。

私自身はドストエフスキーの本を読もうとしたものの、なかなか理解できず挫折してしまいました。

しかし、この対談の中でドストエフスキーが体験を知ったことで興味がわきました。

この一文では、ドストエフスキーがなぜあそこまで多様な人物を描けたのかについて、トルストイと比較しています。

下記の二つの引用も同様です。

小林さん「(ドストエフスキーが)宗教の問題に、あんたみたいに猪武者みたいなやり方をしていは駄目だぞということを、「アンナ・カレーニナ」を書いた頃のトルストイに言っています。ドストエフスキーはもっと複雑で、うろうろ、ふらふら、行ったり来たりしている」
小林さん「トルストイはおっしゃるように合理的といえば合理的ですが、懺悔録などどいうものを書くタイプの男というのは大体そうです。そして、ついにがたっとくるのです。苦労の質が全く違うのです。~中略~青年期にいったん死んで、また生まれて来たような人間なんですから」

人間というのが、合理的であろうとするよりも、もっと迷ったりする存在であることを、自身の死刑を免れた体験などから知っているからであることが分かります。

こうした岡さんと小林さんの視点が『人間とは』という点を浮き彫りにさせていると思います。

合理性よりも意義

岡さん「知や意によって人の情を強制できない、これが民主主義の思想だと思いますが、そういうことがわかれば、たとえば漢字をおかしな仕方で制限し、それ以外の字を使って子供の名前を付けさせないなどということを人に押し付けることもできないはずです」

この一文は、現代の日本の社会の仕組みに対しても言えることであり、昔からシステム都合の不具合はあるんだなということが分かりました。

例えば、夫婦別姓が未だに認められていないことや、行政文書などが電子化されつつもフォーマットがいけてないなど。。。

ここにも、現代の知性の低下と通じる部分があります。

意義を欠いたシステムは使う人ではなく、管理する人のためという点はまさに知性の低下によるものだと言わざるを得ません。

詰め込み教育の虚しさ

岡さん「無理に癖をつけるやり方、側頭葉(長期記憶)しか働かせない教育、それを躾と思い違っているらしいが、いくら厳しくしても、自主的に自制力を使う機会を奪い去っているのだから無駄です」

現代では、自分で考えることが出来ず受け身になる人が多いことや、自分自身が何をしたいのかが分からない人が多い世の中です。

その一端に日本の詰め込み教育がある思っているのですが、この対談が行われた昭和40年にも既にそうした状況があったことが分かります。

「自制力を使う機会を親が奪う事で躾が身につかない」というのは、自分の頭(前頭葉=抽象思考する場所)を働かせずにいることで起きていると岡さんは言います。

ここにもやはり、「何の為に勉強をするのか?」という意義が失われているからだと言えるでしょう。

私自身、学生時代は「なぜ勉強をするのか?」という当たり前な疑問を持っていましたが、まともに答えてくれる人はいませんでした。

逆に言えば、そうした疑問を持ち続けてきたおかげで、勉強することの大切や、そもそも勉強自体が楽しいものであることが発見できたわけですが、かりに意味を教えらていたとしても、心から納得するのに時間は要するでしょう。

でも、その時の自分の声に耳を傾けるということは、とても重要なことであり、自分の声に耳を傾けるからこそ、自分の頭で考えられるようになると思います。

その意味においても、意義を伝えることが重要であると思います。

自由と我執

岡さん「ギリシャ人は、人は理想が大事だといっているようにきこえる。理想というのは無明をこえた真の自分の心です。しかしアテネには、人の心の自由と、小さなほしいままの心とをはきちがえたところがあって、それがアテネの滅ぶ原因になっていると思います」

この一文は、コーチング的な視点で見ても重要な意味を持っていると思います。

私なりに解釈をすると、理想=ゴール設定ということになります。

しかし、大切な点が一点だけあります。

それが、現状の延長線上にはないゴールを設定するという点です。

岡さんは、「理想というのは無明をこえた真の自分の心」と言っています。

これは、無明という自分の我欲だけに固執した状態です。

しかし、それらを超えるつまり、我欲と利他を同時に包摂すること(=止揚する)が理想であるということは、自分のゴールが現状の延長線上にあっては不可能になります。

なぜならば、現状とその延長線上というのは現状の自分の中にあるものを指します。

一方で、利他という他者が入る時点で、すでに現状の延長線上ではなくなります。

つまり岡さんが言う理想とは、自分も他人もどちらの事も包摂するゴールということになります。

ちなみに、岡さんは対談の中で当時の若者の三割が不良であることを嘆いていて、それを3%にしたいという事を話していました。

自身が数学を研究する傍らで、若い人のためになることにも貢献したいという利他のゴールがあったのです。

また、「しかしアテネには、人の心の自由と、小さなほしいままの心とをはきちがえたところがあって、それがアテネの滅ぶ原因になっている」という点も、現代のコーチング理論から言えば、ある意味当然の結果と言えることがあります。

それは、ゴールが無くなると人は平均で18ヶ月で寿命を迎えるというデータがあります。

これはハーバード大学との研究で、アメリカでリタイアした人(高齢による退職や若くして資産をえて退職した人)を追跡調査した結果、それらの人の平均寿命がリタイア後から平均で18ヶ月だったというのです。

なぜ、そうなるのかと言えば、ゴールが無いと明日を生きる意味が無くなるからです。

私たちは、今の重要性で生きています。

しかし、ゴールが無いということは今の重要性を変える必要はありません。

ゴールがあればどうなるか?常に自分の中の重要性を変えていくことになりますので、現状の外に向かう必要があります。

つまりゴールが無いということは、現状の外に向かう必要もなし。

変化をする必要がなければ明日現状の外に行く必要がありません。

明日がいらなくなってしまう為に、寿命を迎えてしまうことになるわけです。

明日がいらない現状維持がゴールになる理由として、岡さんは「人の心の自由と、小さなほしいままの心とをはきちがえたところがあって・・・」という、アテネの人の無明を指摘します。

小さなほしいままの心を持つこと自体は問題ではありません。

コーチングでも趣味のゴールを持つことを積極的に進めています。

しかし、それだけではダメなのです。

コーチングではバランスホイールという、様々な項目のゴールを最低でも8つは設定します。

そうすることで、各ゴールを進めていくという原動力になります。

「自由であること」とは、自分だけの為の自由と自分も他人もという自由の二つがあると思います。

自分だけでも、他人だけのため(=偽善)でも良くないのです。

こうした視点が持てるのは、岡さんが現状の延長線上にはない大きなゴールを設定していたからこそ捉える事ができたのだと思いました。

私の感想

茂木健一郎さんが

「脳による創造性の出発点は、一つの「情緒」。だとすれば、私たちは「情緒」育み、耕し、抱くことに心を砕かなければならないだろう」

と、とがきを書いています。

現代は人の本質にある情緒を無視していると思います。

情緒よりも「将来のためになるか」「役立つか」「合理的か」「資産になるか」という人以外の為に活動をしがちだと思いますし、それが正しいと言われる。

そんなものに情緒は反応しない、情緒が機能しなければ何も説得できない。

他人を説得できないばかりか、自分自身も説得できない。

いつしか自分が何をしたいのかわからなくなって、日々が惰性になる。

でも、ヒントは惰性になっていると思える自分自身にあると思います。

「なんか違う」と思ったのなら情緒が無視されている。

情緒を取り戻すということを意識しようと思いました。

ツイッター上では、上記の感想を書きました。

人というのは、こどもの内は行動の動機が直接的で、大人が理由を聞くと単純だなと思うことがしばしばですが、私が自身の子育てで得た体験としては、逆で如何に大人の行動の動機が自分に素直ではないかを痛感します。

もし、「それが大人でしょ?」と思った人は、「大人はそうあるべき」というどこの誰が言ったかも分からない基準を、自分の気持ちを無視して採用しているといえます。

それが悪い事だとは言いませんが、それを無批判なままに更に他人や自分の子供に伝える事は考えた方がよいと思います。

人間を知るという点において、「感情が納得してくれなければだめなんで、知性が説得しても無力なんです」という岡さんの言葉は、深く吟味する必要があると思います。

そして、それを知ることで無明を超えていくことができ、正しいゴール設定ができるということに繋がるんじゃないかと思います。

更に同時に忘れてはいけないのが、この事が正しいゴール設定をするためでは無いという点にあります。

目的はゴール設定することではなく自分が「~したい」というゴールを達成し更に飛躍していくところにあります。

その中には、ドストエフスキーが描くような行ったり来たりというフラフラっとした人間性が含まれていることや、数学の発見のために行き詰ることなど、合理性とは相反するような要素が常に含まれていることを許容することもポイントになると思います。

良い対談というのは、深い思索をさせてくれると同時に今を見直し、未来を見直す切っ掛けにも、そのヒントにもなるヒントがたくさんあると思いました。

最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。

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