「不器用」「忘れやすい」「生真面目」は短所になるのか?
上記は私のことだ。
同時に、「目立った特技や秀でた才能がない」=私、とも思っている。
私が第三者の視点でこの文を読めば、
「まあ、凡人か、ちょっと残念な人」
とも思われるかもしれない。
でも、私はそう思わない。
むしろ、社会人を通して、短所だと思っていたところは長所なんじゃ?と思っている。
そもそも、社会人になったら、短所を理由に、仕事を断ることはできない。
仕事が多忙な状態で「私は不器用なんで、できません」と言えるか?
「とりあえず、やれ」
「仕事しろ」
「甘えるな」
という言葉しか、相手から返ってこないと思う。
むしろ、「不器用を理由に仕事を減らすって仕事舐めてるよね、あの子」くらいの陰口すら言われそう。
そんな不器用で忘れっぽく、生真面目な性格な私が
社会人になって、ぶつかった壁は、
何でもかんでも時間がかかる、という部分だった。
仕事は同じことの繰り返し、の内容ではなかったため、何か変化があれば頭は真っ白になりやすかった。だから、混乱しながらも、目の前の仕事をしていった(じゃないと残業やらで、他の人に支障が出る)
仕事の内容で大変だったのは、報告・連絡・相談だった。
私は、人に相談する時、「なんと言われるだろう」と考え、周りが何かこそこそ話していたら、自分のことか?と思っていた。
当然、相談する時に、相手がどう返答するか想像することは必要だが、この時の私は想像というよりは、妄想に近かった。劣等感、猜疑心が渦巻いていた。
「どうしよう、ここまでしかできない」
「何を言われるだろう?考えが足りないだろうか」
「同期のあの人はできるのに、私はできない」
「これだけやったのに、なんでできない?」
「いやもう少しやったらできるんじゃないか」
「みんな、どうせ、私のこと…」
胸の中に何か重いものが渦巻く感覚、
ため息も重く、視線も自然に下にいく。
最終的には、自分の思いや意見はしっかり言えず、自分の意見より相手の意見を優先していった。
「〇〇さんは、どうしたいの?」
「〇〇さんは、どうしたらいいと思う?」
こう聞かれた時、私は頭の中では
(こう言ったら相手はどう思うか?ここを突っ込まれるか?あ、もう少し調べたらよかった。だからこう言った方が突っ込まれないかな?)
とグルグル廻り、遠回りで曖昧な意見になり、
「言いたいことがわからない」
「何がしたいかわからない」
「〇〇ということかな?」
と言われ
(あ、言い方間違えた、伝えたいことが伝わらない、やっぱりダメだ。)
と思い、
「すみません」
「あ、そうです(本当は違うけど)」
このように、言いたいことを言ってるつもりなのに、相手に伝わらないことが多かった。次第に、私との会話では翻訳者がいるね、と冗談で言われるようにもなった。
でも、振り返れば、この負の感情は、全て自分で作り出しているものだった。
何かあった時に、自分の理解と対応が遅いと、他の素早く対応できる人の声に従いやすい。
ただ、それに慣れて、考えず、静かにしていることが多くなれば、自分がいざ対応を迫られた時、何もできなくなる。
「どうせ自分なんか」「相手もそう思っている」と、自分や周囲含め拒否感や消極的な姿勢を前面に出すことは、自分に対しても相手に対しても殻を分厚くするだけにしかならない。
しかし、現実では、私が立ち止まっている間にどんどん時間は過ぎていく。周囲の人はそれぞれの人生や段階を経て、階段を上がっていた。
「器用で仕事ができる人がどんどんステップアップする」ことに対して、「自分なんか」と、私はどんどん殻をぶ厚くしていった。
ここまで読めば、「いつこの負のスパイラルから抜け出せるの?」と思うかもしれない。
そのきっかけは、皮肉にも、私が本当にしたかった訪問看護という仕事をし始めた時だった。
この仕事の内容は、一人で利用者様という自宅に訪問し、医師の指示で必要な看護を行うことだ。
そのため、何かあっても、自分しか基本その場にはおらず、頼る時には仕事のメンバーに電話をかけ相談する必要がある(ただし、みんな同じく仕事中)。だから基本、自分一人で直接対応する。
今までは、頼れる職場の人がいるところから環境は変化した。
同時に、
「シャッキっとしないと!」
と、自分と向き合わざるおえない場面が出てきた。
訪問看護の対象者を利用者様と呼んでいるが、利用者様にはこちらの都合は関係ない。病院の時の患者様の時も無論そうだが、何かあった時の発見者が自分になる可能性は高くなる。
ただ、訪問看護はそんなマイナスだけではない。私が一番欲していた、利用者様としっかり関われる時間が確保できることだ。
そもそも看護師を目指した理由は、食いっぱぐれない、仮に結婚して離婚してもなんとやり直せると思ったからだった。
でも、病院で就職し、私はより患者様とちゃんと話したいという気持ちが強くなった。病院では中々見れない、相手の素顔や笑顔が見たい、と思った。
実際に、訪問看護師になり、利用者様と接する時間は病院よりも確実に増えた。そこで、私は色んな利用者様と接した。
色んな過去を持つ利用者様と接することで、私は、「他の看護師の方が私より、看護をしっかりできるんじゃないか」という疑惑が払拭された。
なぜなら、「私が責任を持ってこの人と接することで、職場の中でこの人のことを人柄含め一番知っているのは私だ。」と自信を持って思えたからだ。
不器用だから、忘れっぽいから、生真面目だから、疾患など必要な知識をしっかり理解するのにも時間は人よりもかかる。しかし、相手の色んな表情を見ている上で、「何か変だな」という違和感を察知することができるようになった。
そこには、「私が…」や「他の人の方が…」という思いは当然なくなる。
これは職場の仲間が私を信頼して仕事を任せてくれた面もある。私は少しずつ看護師っていいな、と思えるようになった。
そうした自信は、同時に自分の短所に対しての見つめかたも変えていった。
不器用でも、確実にできていることを見つけられれば、逆に出来ることが嬉しく、積み上げられていけた。
忘れやすくても、忘れやすい傾向の内容を考え、自分なりのメモのまとめ方を学んだ。すると、徐々にだが、大枠を考えられるようになり、メモの量も減っていった。
生真面目が故に、「こうしたい」と気になる部分はどんどん出てきたが、定期的な訪問が出来るため、次にこうしたらいい、と考えられた。これはあれもこれもの、集中力散漫を改善できるようになった。
そして、報告・連絡・相談に関してだが、職場の人に対して、「利用者様のために!」という思いが強くなり、とりあえず言う、ことができるようになった。
また、一番学んだことは、下手に仕事ができ過ぎると、頼られすぎて、それも大変だということ。仕事が遅いからこそ、「あ、これ以上抱えたらまずい」という感覚が掴めるようになった。
もしかしたら、病院でもできることを積み重ねていたかもしれないが、本当の自信を身に付けられたのは訪問看護師になってからだと思う。
今は訪問看護の仕事を結果的に辞めてはいるが、訪問看護の中で学んだことは、在宅での医療や介護の限界をしれた。その分、もっとやりたいこと、守りたいものが明確になっている。
私は、学生時代は、短所・コンプレックスの塊(外見含めて)だった。
社会人になり、「〇〇さんみたいな人生は生きたくない」と言われたこともある。
でも、「〇〇さん、これでどこに行っても、大丈夫だよ。」と最後には言ってもらえた。
もし短所やコンプレックスで悩んでいる人がいたら、
「生きていれば、短所がネガティブなものではなくなる。」
と言いたい。逆に、今は短所があったから、こういう自分でよかったと思えている。
ただ、特に、この過程で、何か特別な才能や技術を得たとは思っていない。でも、自分を好きと、自然に言えることは、それ以上の産物だと私はただただ思っている。